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デヴィッド・ボウイ、その死から約10年。死してなお人を惹きつける魅力とは

 2016年1月10日、イギリスを代表するアーティスト、デヴィッド・ボウイが亡くなった。来年2026年は、ちょうど彼の死から10年の節目になる。では、彼は完全に過去の人になってしまったのだろうか。いや、そんなことはない。その死から10年、彼にまつわる書籍や映画はいまだに発表され続けている。  2025年1月には、活動初期のボウイを映したドキュメンタリー映画『デヴィッド・ボウイ 幻想と素顔の狭間で』が公開された。また、2025年5月、6月には彼の遺作ミュージカル『LAZARUS』の日本版が上演される予定だ。主演を務める松岡充(SOPHIA)も、自身がロックを志したきっかけはデヴィッド・ボウイだったとコメントしている。  死してなお、注目され続けるアーティスト、デヴィッド・ボウイ。一体、彼の何がこれほどにまでに人々を惹きつけるのか。その死から約10年、ここでは彼のキャリアおける功績とエンターテインメントに及ぼした多大なる影響について、改めて振り返っていく。
イギリスを代表するアーティスト、デヴィッド・ボウイ

イギリスを代表するアーティスト、デヴィッド・ボウイ

ビートルズに影響を受けた10代

音楽活動を始めてまだ間もないデヴィッド・ボウイ

音楽活動を始めてまだ間もないデヴィッド・ボウイ

 デヴィッド・ボウイ、本名デヴィッド・ロバート・ジョーンズは、1947年1月8日、ロンドンの南に位置する町ブリクストンで生まれた。父ヘイウッドと母マーガレット、そして、マーガレットの連れ子で10歳上の義兄テリーという家族構成だった。  幼いデヴィッドの芸術的感性に影響を与えたのは、父ヘイウッドだった。芸能関係の仕事をしていた父は、時折不要になったレコードを職場から持ち帰っており、デヴィッドはその音楽に熱心に聞き入っていた。特に彼を魅了したのは、黒人歌手リトル・リチャードだった。代表曲の「のっぽのサリー」(1956年)は、エルヴィス・プレスリーにもカバーされており、ロックンロールというジャンルの形成に多大なる影響を及ぼした人物である。  10代も後半になると、デヴィッドはバンドを組んで音楽活動に励むようになる。当時は、同年代のビートルズが、アイドル的な注目を受け始めた時期でもあり、デヴィッドも彼らの影響を受けた一人だった。  しかし、デヴィッドのバンドの売り上げは芳しくなく、彼を待っていたのは長い下積みだった。ちなみに、彼の芸名「デヴィッド・ボウイ」が生まれたのも、この時期である。彼の本名「デヴィッド・ジョーンズ」は同時期に似た名前のアーティストがいたということから、「デヴィッド・ボウイ」という現在の芸名がつけられたのだった。
初のヒット作「スペース・オディティ」が収録されたアルバム

初のヒット作「スペース・オディティ」が収録されたアルバム

 そんなボウイの初めてのヒットは「スペース・オディティ」という一曲だった。この曲が発表されたのは1969年。アメリカでのアポロ11号打ち上げと月面着陸に世界が湧いていた時期である。宇宙空間を漂う宇宙飛行士の孤独を歌った本作は、ニュースやラジオで流されるようになり、次第にボウイの名が世に知られてくる。その結果、「スペース・オディティ」は、イギリスのシングルチャートで5位にまで昇りつめた。ボウイ初のヒット作である。

YMOをはじめとした80年代の日本人アーティストに与えた影響

新しいアーティスト像を打ち出した「ジギー・スターダスト」

新しいアーティスト像を打ち出した「ジギー・スターダスト」

 その後のボウイで印象的なのは、やはり「ジギー・スターダスト」の誕生である。1970年代前半、あろうことか彼は、「デヴィッド・ボウイ」という名を捨て、新たに「ジギー・スターダスト」という架空のロックスターを演じるようになったのだ。  女性ファッション雑誌を参考に短く切った髪をオレンジ色に染めたボウイは、自らがゲイであることを公言して、新たなアーティスト像を打ち出していく。ボウイなのか、ジギーなのか、男なのか女なのか、そんな曖昧な世界観に人々は引き込まれていった。  もちろん、ボウイ熱に浮かされたのは、日本人も例外ではない。フォーククルセダーズのメンバーの一人で、後にロックバンド、サディスティック・ミカバンドを結成することになる加藤和彦もボウイ・ブームの目撃者だった。このサディスティック・ミカバンドのドラマーとして知られる高橋幸宏は、後に80年代のテクノブームをけん引するグループ、イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)のメンバーになる。また、同じくYMOの坂本龍一も大島渚監督作品『戦場のメリークリスマス』(1983年)でボウイと共演し、ヒットを記録する。こうしたことからも、70年代のスターとしてのデヴィッド・ボウイ像は、日本の80年代カルチャーに少なからぬ影響を与えていると言える。
ドイツのテクノから影響を受けた作品『ロウ』

ドイツのテクノから影響を受けた作品『ロウ』

 YMOのみならず、テクノといえば欠かせないのがドイツの音楽グループの影響である。70年代後半、シンセサイザーなどの電子楽器が発達する中、ドイツではクラフトワークやノイ!といったグループが、こうした新技術を用いて次々と作品を発表していた。  ボウイもこうした作品には耳を傾けており、新しい創作の可能性を模索していた。その結果、出来上がったのが、いわゆる「ベルリン三部作」である。これらの作品は、当時、アンビエントという新たなジャンルを確立しつつあった、ブライアン・イーノとの共演で制作された。中でも三部作の1作目『ロウ』(1977年)は、収録曲の半数が歌声の入っていないインストゥルメンタルの楽曲であり、強い実験性を帯びた作品だった。  『ロウ』は、斬新な作風ではあったものの、それが故にレコード会社は商業的な成功は見込めないのではないかと危惧していた。しかし、そんな予想とは裏腹に、リスナーたちはその先進性を評価した。今では後に登場するポスト・パンクやニューウェーブといった新しいジャンルの先駆けだったと言われている。
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ボウイが愛した日本の街
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現役大学生ライター。読みは、れいもん・さるとる

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