聖徳太子 本当は何がすごいのか【第4回:神道が先か、仏教が先か】
神道が先か、仏教が先か
日本に仏像が入ってきたとき、最初にできた寺院では神道と仏教を一緒に祭っていました。仏像も「仏神像」と呼ばれていました。仏教を神道に取り込むという形で完全な神仏習合を実現していたのです。 一方、九世紀以降に仏教学者や僧侶の発想により、本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)という思想が生まれました。これは、日本の八百万の神様はすべてが仏の化身として現われたものだと考える説です。たとえば、本地である大日如来という仏が日本に垂迹すると天照大神という神になり、薬師如来は牛頭天王や素戔嗚になり、大黒天が大国主になるといった具合です。 この本地垂迹説は、仏教がもとにあって神道があとに出てきたものという考え方をとります。そのようにして仏教と神道の習合をはかったのです。もともと日本にあった神仏習合の考え方とは正反対の考え方です。 仏教が経典という言葉で考える宗教であるのに対して、神道には経典がないため、言葉で考えるという習慣もありませんでした。その結果として、インドや中国の仏教のほうが日本の神道よりも古い起源を持つものなのだろうという見方が定着したのです。 しかし、日本の場合は、もともと神道があったところに仏様を入れたのです。言い方を変えれば、自然道に人間道を入れたのです。 神道というのは、自然にしたがっていけばすべてはうまくいくという考え方です。ところが、人間が自然のままではいけないと考えるようになり、独立したり自立したりといった考えを持つようになると、そこに煩悩が生まれることになります。それを解決するために聖徳太子は仏教を取り入れる判断を下したのです。 本文でも述べていますが、日本がもともとは神道だということは「和」という言葉に表れています。「和」というのは神道の考え方そのものです。その「和」によって、神道と仏教を一つにした神仏習合の寺院もできたのです。 ところが、慶応4年(1868年)の太政官布告(神仏分離令)、明治3年(1870年)の大教宣布が出されると、廃仏毀釈運動がはじまりました。神仏習合は禁止され、神道と仏教、神社と寺院をはっきり分けて、神社に奉仕していた僧侶には神職に転向するか、あるいは還俗を命じました。また、仏像・仏具を破壊し、御神体を仏像とすることも禁じました。これにより、神の寺というあり方が忘れられてしまったのですが、それまでは神道と仏教は無理なく融合していたのです。 (出典/田中英道著『聖徳太子 本当は何がすごいのか』育鵬社) 【田中英道(たなか・ひでみち)】 東北大学名誉教授。日本国史学会代表。 著書に『日本の歴史 本当は何がすごいのか』『[増補]日本の文化 本当は何がすごいのか』『[増補]世界史の中の日本 本当は何がすごいのか』『日本の戦争 何が真実なのか』(いずれも育鵬社)ほか多数。
『聖徳太子 本当は何がすごいのか』 やっぱり聖徳太子は実在した! なぜ、「厩戸王」としてはいけないのか。 決定的証拠で「不在説」を粉砕! |
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