世界文化遺産から読み解く世界史【第36回:三十年戦争が勃発した町――プラハ】
新しいヨーロッパの形成とハプスブルク家の衰退
17世紀からのヨーロッパの歴史で最初の大きな戦争は三十年戦争でした。これは1618年にボヘミヤ王国といわれたプラハから始まっています。ここに神聖ローマ帝国の代官がいたのですが、その代官が窓から投げ落とされるという事件が起きたのです。これに、神聖ローマ帝国のフェルディナント2世が介入し、プロテスタントを弾圧するという事件が起きました。その際、皇帝の元に、イタリア、スペイン、ローマ教皇などからカトリックの援軍が送り込まれて、プラハが攻撃されました。一方、プロテスタント側も、新教徒同盟を組織して、事件は内乱・戦争へと発展していきました。 この戦争で、スペインはカトリック側を支援し、デンマークやスウェーデンはプロテスタント側を支援するなどして戦争はどんどん拡大していったのです。それが結局、神聖ローマ帝国全土へと広がり、主戦場となったドイツは、人口の四分の一のおよそ500万人が命を落としたといわれます。 カトリック側にはフランスも支援していたのですが、途中からフランスがプロテスタント側に立ったことで風向きが変わり、神聖ローマ帝国は急に劣勢になっていったのです。そうして1648年にウエストファリア条約が結ばれて、新しいヨーロッパの国々の形勢がつくられました。 これによって、ドイツの諸侯と諸都市が自治権を持つようになり、スイス、オランダが独立しました。プロテスタントのカルバン派が承認され、結局、神聖ローマ帝国は有名無実化し、これを支えていたハプスブルク家が弱体化しました。「黄金のプラハ」
プラハという町は非常に古い街です。9世紀末から築かれていたボヘミヤ王国の中心地ですが、特にカレル1世が14世紀半ばに神聖ローマ帝国のカール4世となると、プラハを都にしたのです。聖ヴィート大聖堂のゴシック様式による建築の素晴らしさや、東岸の市街地の整備、カレル橋の再建などによって、「黄金のプラハ」といわれる時代を迎えました。そのプラハも、戦争の舞台となって荒廃するのですが、バロック様式の建築がカトリック化とともに入り込んで、「百塔の町」とか、「建築博物館の町」と呼ばれるようになりました。 いま、プラハの町に行くと、そうした町並みが数多く残っています。そのゴシック様式は20世紀に至るまで、ネオゴシック様式としてつくられ続けました。 プラハで注目すべきは、作家のカフカがいたように、ユダヤ人地区があることです。町の北側にユダヤ人地区があるのです。ユダヤ教の教会堂(シナゴーグ)や旧ユダヤ人墓地が保存されているのです。 前回(第35回)にも、イギリスの発展との関係で、ユダヤ人のことに触れましたが、東欧にもユダヤ人たちが暮らしていて、その力を発揮していたのです。ヨーロッパ史ではユダヤ人のそうした動きや力も注目されなくてならないことなのです。 (出典/田中英道著『世界文化遺産から読み解く世界史』育鵬社) 【田中英道(たなか・ひでみち)】 東北大学名誉教授。日本国史学会代表。 著書に『日本の歴史 本当は何がすごいのか』『[増補]日本の文化 本当は何がすごいのか』『[増補]世界史の中の日本 本当は何がすごいのか』『日本史5つの法則』『日本の戦争 何が真実なのか』『聖徳太子 本当は何がすごいのか』『日本文化のすごさがわかる日本の美仏50選』『葛飾北斎 本当は何がすごいのか』ほか多数。
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