一人の女のために「人狼オフ会」が崩壊…なぜクラッシュを防げなかったのか【サークルクラッシュ事件ファイル②】
【可視化と情報共有】
まず、前回の事例では「定期的な集まり」があった。これには3つの意味でクラッシュを防ぐ効果がある。
単純に何度も顔を合わせるので、第1に加奈子や他の男たちの動向が「可視化」されやすく、第2に「仲良くなりやすい」ということだ。今回の事例ではネットやLINEによって加奈子は男たちと「密会」できていた。
しかし、前回の事例では加奈子の行動は可視化され、そして「加奈子はヤバい」ということを教えてくれる仲間がいた。先輩の佐竹が加奈子に「引っかかる」ことなく生き残れたのはそれが理由だろう。ただし、新入生の高橋の方は横の繋がりが薄く、加奈子の危険性に気づけなかったのだが。とはいえ、高橋が脱会した後に加奈子が糾弾されたという点では横の繋がりは機能しているとも言える。今回の人狼サークルの例では小田嶋をかばう者はもちろん、足立や村口の暴走を止める者は誰もいなかった。
【包括的か選択的か】
そして第3に「集団からの離脱が難しい」ということが挙げられる。簡単に集団から離脱できないことは「しがらみ」とも捉えられるが、あまりにも離脱が容易だと深い関係を作ったり、関係が壊れそうになってもなんとか修復したり、といったことができなくなる。つまりこれは「仲良くなりやすい」ということとコインの裏表の関係にある。言わば、離脱が難しいことによってしっかりとした「居場所」が確保できるのだ。
これは若者論で著名な社会学者・浅野智彦氏が述べた「包括的コミットメント」と「選択的コミットメント」という概念を使うと理解の助けになるかもしれない。家族、夫婦、恋人といった関係性は離脱が困難で、生活のあらゆる文脈を共有する全人格的な(包括的な)関係だ。一方、趣味でのみ繋がる友人や、ビジネスライクな関係は限定された文脈でのみ繋がる部分的な(選択的な)関係だ。
この「包括的か選択的か」という軸で集団を整理すると、おそらく家族が最も包括的であり、学校のクラスは中程度に包括的、地域や企業も少し包括的、サークルは選択的、そして今回の人狼オフ会はかなり選択的である、と整理できる。
浅野氏は15年以上前から新しい親密性の形として「選択的コミットメント」が出現していることを指摘しているが、それは単なる「コミュニケーションの希薄化」とは異なる。サークルのような人間関係は部分的で選択的であるのにもかかわらず、その都度相手との関係に没入し、熱中して会話することが多いというのが特徴として挙げられる。言い換えればそれは「居場所として成り立ちうる」、ということだ。
「サークルクラッシュしてしまうような集団は所詮その程度の集団なんだから、壊れてしまえばいい」ということが言われることもある。確かに、今回の人狼オフ会は定期的な集まりもないような「ゆるい集まり」だ。ふとした事件で簡単に解散もしてしまうし、また別の人間が作ればいいのかもしれない。
しかし例えば今回の事例に登場した飯田などは、学生時代にロクにサークルを経験したことがなく「青春取り戻し」をやっていた。人狼オフ会という集団は選択的なものでありながら、飯田のようにそこに没入し「居場所」としてすがっている者もいるかもしれないのだ。今回名前が出てこなかった他の参加者にとっても人狼オフ会は「居場所」だったのかもしれない。
家族、地域、学校、職場といった「包括的コミットメント」側の集団の「暴力性」が次々と明らかになっている昨今※、「選択的コミットメント」による「自由」な集団のみが、ある人間にとっての「居場所」として機能することは大いにある。その代表例が「サークル」である。しかし、そういうところでこそ(サークル)クラッシュは起こっているのだ。
※例えば、家庭では「毒親」やDVや虐待の問題。地域の繋がりは昔に比べ衰退している。学校にはいじめ問題。職場ではブラック企業の問題。など。
この特集の前回記事
この記者は、他にもこんな記事を書いています
ハッシュタグ