初めて大勢のヒトの前で女装するのってどんな気持ち…? 女装小説家・仙田学の覚悟
女装を肯定してくれる家族と、僕の表現活動を認めてくれているファンクラブの会長が目の前にいて、僕の話を心待ちにしているお客さんたちが控えている。
生きてきてよかったと、心の底から思えた。
いや、正確に言うと、子どもの頃に戻ったかのような気分だった。自分を全面的に受け容れてくれる両親に守られてぬくぬくと暮らしていた幼児の頃に。
心残りがあるとすれば、対談の内容が若干おろそかになってしまったということ。女装姿で登壇することの意義に注意が向きすぎていて、会話内容に集中できなかったのだ。
代わりに妙なことばかり覚えている。主催者の方が打ち上げ用の料理を楽屋裏で作っていた。ちらし寿司を作成していたのだが、途中で味つけがおかしなことになったらしい。急遽トマトジュースをぶちこんで、リゾットに変更していた。
ちらし寿司だと聞いていた人たちは、リゾットを見て非常にびっくりしていた。
「料理ってのはね、もう駄目だと思ったときから始まるのよ」
主催者の方のこの名言は、いまでも耳にこびりついている。
女装にも小説にも当てはまる考え方ではないだろうか。そして、約50人のお客さんの前で話した対談の中身は、あまり記憶にない。
ちなみにこの対談のなかで、対談相手のラノベ作家の方に、「ラノベって何?」と聞いてみた。
「中高生の暴力衝動と性衝動を心地よくくすぐってあげるためのキャラクター小説」
という返事が返ってきた。
対して僕は、純文学を、「ひとの人生や認識を根底から変えてしまうような言語表現」だと返した。
そこだけ切り取ってTwitterでツイートしたところ、軽く炎上した。ラノベ好きな読者からは、そのラノベでも人生観を変えられたことはある、という批判が相次いだ。他方、純文学の読者からは、そんなふわっとした定義でいいのかという疑問が噴出した。
僕自身は、ジャンル分けやジャンルの定義には、積極的な意義を見いだしたことがない。世のなかには面白い小説と、そうではない小説がある。それだけだ。
男性の格好と女性の格好というジャンル分けについても同じことが言える。そんな区別や定義よりも、その人が自分らしくいられるかどうかのほうが遥かに大切。越境すべきジャンルなど、そもそもないのかもしれない。
そう気づかされたことでさらに、この日は僕にとって、かけがえのない1日となった。この連載のアイコン画像を、その日に撮った写真にしているのはそのためだ。 <文/仙田学>
【仙田学】
京都府生まれ。都内在住。2002年、「早稲田文学新人賞」を受賞して作家デビュー。著書に『盗まれた遺書』(河出書房新社)、『ツルツルちゃん』(NMG文庫、オークラ出版)、出演映画に『鬼畜大宴会』(1997年)がある
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