年下にのめり込む滑稽さに気付かない男性、自虐する女性
――“男が若い女を飼う”谷崎の原作と、“女が若い男を飼う”今回の舞台では、単純に設定を男女逆にしただけではなく、主人公の心情や読者(観客)に与える印象も変わってくるのではないですか?
ペヤンヌ:そうですね。原作の譲治は、最初からナオミを妻として迎えようとしていて、その気持ちは肉欲や情欲によるところが大きい。でも、洋子は最初、息子という名目でナオミを育てようとします。私自身の正直な心情に照らし合わせてみても、母性本能と恋愛感情が入り乱れた、より複雑で気持ち悪い状態じゃないかなと思ったんです。
安藤:譲治がナオミを「立派な女にする」と言うのと、洋子がナオミを「立派な男にする」と言うのは、やっぱり“育てる”の意味合いが違うんだよね。
――いわゆる“パパ活”(若い女性が、原則肉体関係なしで、年上の男性と食事やデートをすることで金銭的に援助を受けること)でも、最終的には体の関係を求められるケースは多いようですね。
ペヤンヌ:私も若いコから聞いたことがあります。でも、逆を考えると……男女逆転すると“ママ活”になるんでしょうか? おばさんが、ママ活する若い男の子に「お金出してるんだから、わかってるでしょ?」とは迫れないですよ。美しい観賞物として一方的に愛でていたいという自己完結した欲望のほうが強い気がします。
――谷崎の原作が、ナオミへの思いをとても耽美的に美化して描いているのに対して、ペヤンヌさんの描く洋子は、ナオミに入れ込んでいる自分に対する含羞や自虐が多く含まれている気がしました。
ペヤンヌ:そこはどうしても、ひと回りもふた回りも若い男に翻弄されている自分って滑稽だな、という気持ちが絶対にあると思っていて。
安藤:残念ながら私たちは、女性であるというだけで、愛でられる対象として若いほうがいいという価値観を刷り込まれて40歳まで生きてきちゃった。だから、若さが失われていく一方のこんなババアに迫られても……と思ってしまうんじゃないかな。私だったら、思っちゃいますね。
演劇ユニット「ブス会*」を主宰し、すべての作品で脚本・演出を担当するペヤンヌマキ氏。女性同士の関係性や会話の機微を描くことに定評がある
ペヤンヌ:何も悪いことをしてるわけじゃないのに、女性は加齢で若さを失っていくことに対して、「こんな私が」と卑屈になりがち。男の人は、自分がおじさんになっていくことにそこまで卑屈にならないんじゃないですか?
――リーディング公演では、ナオミに入れ込んで我を失っていく洋子の痛々しさ、滑稽さに対して、客席からは笑いも起きていました。これを見て、「年上男性が若い女の子に執着する姿も、こんなに必死で滑稽なのかも」ということに、逆に男性が気付くきっかけになるのでは、と思いました。
ペヤンヌ:そうか、その滑稽さに男性は気付いてないんですかね。
――年を取るほどお金や地位といったプライオリティが手に入って、若い子を魅了する武器になると、男性はどこかで当たり前のように思っているんじゃないかと思います。
ペヤンヌ:女性は、そこ(加齢と魅力・自信)が全然直結しないんですよ。
安藤:だから、若くてキラキラした男の子は自分にとって遠い存在だし、どうしても引け目を感じちゃうよね。そうそう恋愛や性の対象にならないし、実際に向こうから近付いてきても、「私のありのままを見て!」なんて思えないと思う。
――その代わり、洋子はナオミを「男として立派に育て上げる」という“母性”によって支配しようとしますよね。男性アイドルのファンやホストの太客が、推しに大金を貢いで支えようとする心理にも近いものを感じました。
ペヤンヌ:最近、『しゃぼん玉』という映画を見たんですけど、犯罪を犯して山村に逃亡してきた林遣都演じる青年を、市原悦子演じる老婆が「坊は、いい子じゃのう」と愛でながら家でお世話するうちに、彼がだんだん改心していくんです。最後は「俺、ばっちゃんのところに帰ってきたい」と言われるのを見て、私はこのおばあちゃんを目指したいなと思いましたね。
安藤:ゆくゆくはそこに行くんだ(笑)。
ペヤンヌ:40代だとまだ性欲とかが混ざってきちゃうから厄介だけど、洋子がナオミを愛でる気持ちは、もっと年を取ると最終的にはああいう“母性”にたどり着くんじゃないかなと思って。やっぱり、肉欲の奴隷になっていく譲治の“愛”とは違いますよね。
安藤:そこまで行くと、性とは完全に切り離されてるもんね。ただの人類愛だもん。ペヤンヌさんが将来、美少年にご飯を食べさせるおばあちゃんになる姿が見えた気がします(笑)。
ペヤンヌマキ×安藤玉恵生誕40周年記念ブス会* 『男女逆転版・痴人の愛』は、2017年12月8日(金)~19日(火)、こまばアゴラ劇場にて上演
取材・文/福田フクスケ 撮影/長谷英史