ジョージ・ゴーディエンコ マッカーシズムに消された男――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第27話>
ゴーディエンコにはレスリングのほかにもうひとつのパッションがあった。それは画家としての才能だった。
カナダに帰ったゴーディエンコはアートの道を模索したが、数年後には生活費をかせぐための手段としてプロレスに復帰することになる。
ゴーディエンコの評判を耳にしたスチュー・ハートが、まだ20代なかばだったゴーディエンコをカルガリーに呼んだ。スチュー、スチューの親友ルーサー・リンゼイ(ルッター・レンジ)、ゴーディエンコの3人は来る日も来る日もハート家の地下牢=ダンジェンでレスリングのケイコに汗を流した。
スチューはゴーディエンコに「レスリングをやめてはいけない」とアドバイスしたが、ゴーディエンコはカナディアン・ロッキーを安住の地には選ばなかった。
アメリカに入国できないカナダ人、ゴーディエンコは“季節労働レスラー”として世界じゅうを放浪することになる。
秋から冬にかけては毎年、ドイツとオーストリアの長期トーナメント大会に出場。インドでは高名なダラ・シンDara Sign、パキスタンではボロ一族Bohlu’sと闘い、イラン、イラク、サウジアラビアではプロレスではないプロレスを体験した。
イングランド、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ共和国、そして、日本。プロレスのある国はほとんど渡り歩いた。
プロレス史に残っているゴーディエンコのただひとつの名勝負は、1959年にイギリスでおこなわれた大英帝国ヘビー級王座をかけたビル・ロビンソン(当時21歳)との一連の死闘だった。
ゴーディエンコとロビンソンのシングルマッチは、それから9年後に日本の国際プロレスのリングでも実現した(1968年=昭和43年11月4日、札幌)。
1976年にドイツでローラン・ボックRoland Bockとの試合中に右足首を骨折し、そのままリングを下りた。
ゴーディエンコに引導を渡したのが“裏街道の男”ボックだったというところがひじょうに興味ぶかい。30年間におよぶ流浪のサーキット生活だった。
引退後は、春と夏はロンドン、秋から冬は北イタリアに住み、白いキャンバスに向かって画を描きつづけた。
●PROFILE:ジョージ・ゴーディエンコGeorge Gordienko
1928年1月7日、カナダ・マニトバ州ウィニペグ生まれ。1947年、ミネソタ大在学中にデビュー。北米王座(カルガリー=1957年)、英連邦王座(ニュージーランド=1968年、イングランド=1959年&1971年)など獲得。1976年に引退後は、ロンドン、イタリアなどに在住、2002年5月13日、ブリティッシュ・コロンビアの自宅で死去。享年74。
※文中敬称略
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文/斎藤文彦
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