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ヒロ・マツダ 日本人フリーエージェント“第1号”――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第24話>

ヒロ・マツダ 日本人フリーエージェント“第1号”<第24話>

連載コラム『フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100』第24話は「ヒロ・マツダ 日本人フリーエージェント“第1号”」の巻(イラストレーション=梶山Kazzy義博)

 フリーの日本人レスラー第1号としてアメリカで大成功を収めたレスラーだった。  高校時代はプロ野球選手をめざしていたが、力道山とシャープ兄弟の試合をそば屋のテレビで観てプロレスラーになることを決意し、1956年(昭和31年)に力道山道場に入門。  翌1957(昭和32年)年1月、沖縄・那覇で19歳でデビュー戦をおこなうが、同年、日本プロレス協会を退団した。  日本プロレスをやめた理由については諸説があるが、力道山がマツダに対し「お前は大相撲に入れ。幕内力士になったらプロレスに戻してやる」と命令したことが大きなファクターだったとされる。  プロレスの本場アメリカでの活躍を夢みていた新人レスラーのマツダにとって、それはあまりにも大きなまわり道のように思えた。  その後、マツダは空手とボディービルに打ち込み、母方の親せきを頼って22歳で単身ペルーに渡った(1960年4月13日)。日本のプロレス史上、力道山に反旗を翻した最初の日本人レスラーだった。  身長185センチ、体重90キロというフレームは当時の日本人レスラーとしてはひじょうに大型だった。  アーネスト・コジマ(スペイン語の発音エルネスト)のリングネームでペルーとメキシコを約1年間サーキットしたマツダは、1961年にテキサス州ヒューストンのプロモーター、モリス・シーゲルMorris Sigelのブッキングでようやくアメリカの土を踏む。  アメリカでの最初のリングネームはコジマ・サイトー。日系レスラーのデューク・ケオムカDuke Keomukaとのタッグチームでテキサス、ミズーリ、カンザスの南部・中西部エリアをツアーしたあと、1962年1月にカンザスシティーのプロモーター、ガスト・キャラスGust Karrasからヒロ・マツダというリングネームを与えられた。  1880年代に活躍した“最古の日本人レスラー”ソラキチ・マツダ、1920年代にテキサスでミドル級王者となった日系レスラーのマティ“ザ・マイティ”マツダにあやかってのものだった。  ファーストネームのヒロは本名・泰弘(やすひろ)のヒロ。プロレス文化人類学的には、ヒロ・マツダは3人めの“マツダ”ということになる。  アメリカでのデビューから2年で、マツダは宿命のライバルであるダニー・ホッジを倒してNWA世界ジュニアヘビー級王座を獲得した(1964年7月11日=フロリダ州タンパ)。  マツダとホッジのタイトルマッチは名物カードとなり、フロリダとオクラホマを往復しながらの“90分時間切れドロー”の耐久マッチが何度となくくり返された。  その後、マツダはオハイオ(アル・ハフト派)のサーキットに合流し、ここでカール・ゴッチと出逢う。  40歳のゴッチが27歳のマツダにジャーマン・スープレックス・ホールド(と試合ではあまり使わないサブミッション技の数かず)を伝授した。
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マツダ―ゴッチ―猪木の3人を結ぶ“点”と“線”
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