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ダイナマイト・キッド “爆弾小僧”のダイナマイト人生――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第54話>

 カルガリーと新日本プロレス、キッドと藤波の遭遇は時間の問題だった。ふたりはカルガリーでおたがいの保持するジュニヘビー級とミッドヘビー級のチャンピオンベルトをかけてダブル・タイトルマッチで対戦した(1979年=昭和54年8月17日、ダブル・カウントアウトで引き分け)。  キッドが日本でスーパースターとしての不動のステータスを築いたのは、初代タイガーマスク(佐山聡)との“金曜夜8時ゴールデンタイム”の闘いだった。  タイガーマスクのライバルがキッドでなかったとしたらアニメーションの“実写版”は成功しなかっただろうし、タイガーマスクもあそこまで社会現象になることはなかったかもしれない。  タイガーマスクと“維新軍”長州力が巻き起こした1980年代前半の新日本プロレス・ブームのなかで、キッドはアンドレ・ザ・ジャイアント、スタン・ハンセン、ハルク・ホーガンらとともにお茶の間のスターとなった。  キッドとカルガリーのレスリング・シーンをとりまく環境が一変したのは、1984年になってからだった。  ビンス・マクマホンがスタンピード・レスリングを買収した。スチューは、カルガリーのローカル団体がニューヨークのWWEとまともに勝負ができるとは考えなかった。  WWEは全米とカナダ全域へのマーケーット拡大を計画中で、スチューが団体の売却に同意しなかったとしても、WWEはいずれカルガリーを“侵略”していた。  スチューは“店じまい”の交換条件にブレット・ハート、キッド、スミス、ジム・ナイドハートの4選手のWWEとの専属契約の約束をとりつけた。  キッドとスミスは新タッグチーム、ブリティッシュ・ブルドッグスとしてWWEの全米サーキットに合流した。  カルガリーと日本を往復していたころは180ポンドくらいだったキッドの体重は、それから半年くらいのあいだに228ポンド(約103キロ)に増量した。  ミッドヘビー級だったはずの相棒スミスの体重も260ポンド(約117キロ)に肥大していた。ふたりがアナボリック・ステロイド(タンパク同化剤=筋肉増強のための薬物)を使用していたことはだれの目にも明らかだった。  ホーガンを主役とする1980年代のWWEは、スーパーヘビー級のマッスル・ボディーでなければ生きていけない空間だった。  1958年生まれのキッドは、年齢的にはケビン・ナッシュ、スコット・ホール、カート・ヘニング、レックス・ルーガー、スコット・ノートンら1990年代のスーパースターたちとまったく同い年ということなる。  現役選手としてのピークは1980年代前半だったから、かなり“早熟”なスターだった。  B・ブルドッグスは“レッスルマニア2”の大舞台でブルータス・ビーフケーキBrutus Beefcake&グレッグ・バレンタインGreg Valentineを下してWWE世界タッグ級王座を獲得し(1986年4月7日、イリノイ州ローズモント)、この王座を9カ月間にわたってキープした。  しかし、WWE在籍時代の実績らしい実績はこの世界タッグ王座だけで、カルガリーではスーパースターだったキッドもWWEのリングでは契約ロースター150選手のなかのワン・オブ・ゼムでしかなかった。  10代から危険なバンプをとりつづけてきたキッドの首、腰、背骨はこの時点ですでに悲鳴をあげていた。
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WWEを退団してカルガリーへ
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