ジェシー・ベンチュラ&アドリアン・アドニス イースト・ウエスト・コネクションの明暗――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第52話>
ジェシー“ザ・ボディー”ベンチュラとアドリアン・アドニスのタッグチームは、ザ・イースト・ウエスト・コネクションThe East West Connectionと呼ばれた。
イースト=東がニューヨーク・ニューヨーク生まれのアドニスで、ウエスト=西が“自称”カリフォルニア州サンディエゴ出身のベンチュラ。
タッグチームとして活動したのは約3年間だが、おたがいがおたがいの弱点をカバーしながらスーパースターへの階段をのぼっていった持ちつ持たれつ名コンビだった。
ベンチュラはハイスクール時代(ミネソタ州ミネアポリス)は水泳選手として活躍し、ハイスクールを卒業と同時に海軍に入隊。
海軍特殊部隊Navy SEALSの潜水部隊チーム12に4年間所属し、ベトナム戦争に出征した。1973年に除隊後、1975年にエディ・シャーキーからプロレスの手ほどきを受けた。
“サンディエゴ出身”という架空のプロフィルは、海軍特殊部隊時代の配属基地の場所で、キャラクター的にはデビュー当時からずっと“スーパースター”ビリー・グラハムの完全コピー版を演じた。
アドニスはCFL(カナディアン・フットボール・リーグ)のトライアウトを受けたカナダのブリティッシュ・コロンビアでプロレスに方向転換。
1974年にバンクーバーでキース・フランクスのリングネームでデビューし、オレゴン、ロサンゼルスと西海岸エリアを南下し、テキサス州アマリロをサーキット中にアドリアン・アドニスに改名した(1978年)。
アドリアンはアドリア海(地中海のイタリア側)から来た人という意味で、アドニスはギリシャ神話に出てくる女神アフロディテに愛された美少年アドニスの名をもらった。
ベンチュラとアドニスは、1979年の夏にAWAでめぐり逢った。ベンチュラはマイクを握らせたら止まらない“おしゃべりの達人”だったけれどレスリングが不器用で、アドニスはレスリング・センスは天才的なものを持っていたけれどTVインタビューが苦手なレスラーだった。
ふたりはコンビを組むことでおたがいのキャラクターを最大限に有効活用した。試合はアドニスが動きまわり、ベンチュラがとどめを刺すをいうシンプルなパターンをこしらえた。
TVインタビューの収録ではベンチュラがしゃべりまくり、アドニスはコワイ顔をしたり、ニヤニヤしたりしながらすぐよこに立っているだけでよかった。
タイツとシューズの色と柄、ガウン、Tシャツ、帽子、サングラスといったリングコスチュームはできるだけド派手なものを身につけるようにした。
ツアー中もふたりはつねにいっしょに行動し、ボスのバーン・ガニアとの折衝もリング上のそれとまったく同じパターンのコンビネーション・プレーでのぞんだ。
ガニア、ニック・ボックウィンクル、マッドドッグ・バション、クラッシャー・リソワスキー、バロン・フォン・ラシクといった大ベテランだらけのドレッシングルームでは、ふたりは生意気な悪ガキだった。
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