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デイビーボーイ・スミス 生き方が不器用だった力持ち――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第55話>

デイビーボーイ・スミス 生き方が不器用だった力持ち<第55話>

連載コラム『フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100』第55話は「デイビーボーイ・スミス 生き方が不器用だった力持ち」の巻(Illustration By ToshikiUrushidate)

 ダイナマイト・キッドが切れ味の鋭いナイフだとしたら、デイビーボーイ・スミスは太い丸太ん棒のようなキャラクターだった。  イトコで兄貴分のキッドとよく似ていて、キッドよりもちょっと大きくて、キッドがいつもピリピリした空気をまき散らしていたのに対し、スミスのおおらかな性格は試合にもはっきりと表れていた。  デイビーボーイ・スミスは本名だった。スミスが生まれたとき、母親が出生届の“性別”と“ミドルネーム”の欄をまちがえ、ミドルネームのカッコ内に誤って“BOY”と記載してしまったらしい。  スミス自身、18歳でパスポートを申請するまでその事実をまったく知らなかったという。  スミスはいつもキッドのあとを追いかけていた。プロレスの師匠はキッドと同じイングランドのテッド・ベトレー。  12歳で本格的なトレーニングをはじめ、ビッグ・ダディーにヤング・デビッドというリングネームをもらい、1978年5月、同期生のバーニー・ライトBernie Wrightを相手に15歳でデビューした。  その後はこれもキッドと同じようにビッグ・ダディーとのタッグで活躍したが、デビューから3年後の1981年4月、キッドのブッキングでカナダ・カルガリーに渡った。  カルガリーでの最初の3年間はキッドがヒール、スミスがベビーフェースというポジションで毎晩のようにイトコ同士で闘った。ふたりが親せきだというデータは公表されなかった。  スミスは“カルガリーの父”スチュー・ハートのお屋敷にホームステイしながらハート家の四女ダイアナと愛をはぐくみ、スミスが21歳、ダイアナが20歳のときにおとぎばなしのような結婚式をあげた。  キッドやブレット・ハート、オーエン・ハートらがそうであったように、スミスにとって次なるステップは日本のリングであり、そのまた次のステップはWWEだった。  WWEでのツアー生活は、キッドとスミスの人間関係を壊してしまった。“ダイナマイト・キッド”としてのプロレスができなくなったキッドはWWE退団を望み、スミスはシングルプレーヤーとしてWWE残留を選択した。  ふたりのあいだにいったいなにがあったのかは、いまとなってはもうわからない。キッド自身による回想だけがその自伝本『ピュア・ダイナマイト』に記されている。  体重175ポンド(約79キロ)のヤング・デビッドから体重270ポンド(約122キロ)のブリティッシュ・ブルドッグに変身したスミスは、故郷ロンドンで開催された“サマースラム”のメインイベントで義兄ブレットを下しインターコンチネンタル王座を獲得した(1992年8月29日=ウェンブリー・スタジアム)。  試合終了後、スミス、ブレット、ダイアナの3人がリング上で抱き合うシーンに8万人の大観衆が拍手を送った。スミスにとっては、この試合が現役生活のピークだった。
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レスリング・ビジネスの“政治面”にほんろうされた
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