ケリー・フォン・エリック 運命にほんろうされた“鉄の爪”――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第57話>
それから1年後、ケリーはなにごともなかったかのようにしっかりとした足どりで奇跡的なカムバックを果たした。
この時点から、ケリーはドレッシングルームのなかでも、シャワーを浴びるときも絶対にリングシューズを脱がなくなった。
ケリーの右脚は足首から下が切断されている、という奇怪なウワサが流れた。
1988年7月、ラスベガスでおこなわれたAWAのTVマッチで、カーネル・ディビアースと対戦したケリーの右足のリングシューズが試合中にスポッと抜けた。
ケリーはすぐに場外にエスケープし、右足全体をエプロン下のカバーのなかに入れてリングシューズを直し、そのまま試合をつづけた。ウワサはどうやらほんとうだった。
問題の右足首切断の手術がおこなわれたのが1986年11月以降だとすると、ケリーは“魔法のブーツ”をはいて2度、新日本プロレスのリングに上がっていたことになる。
1988年(昭和63年)11月の来日では藤波辰爾、前田日明らとシングルマッチをおこない、ドロップキックやロープワークをごくふつうにこなしていた。
この前年の1987年4月12日、ケリーのすぐ下の弟でファミリーの四男マイクが薬物自殺。それから4年後にはデビューしたばかりの末っ子クリスもピストル自殺をとげた(1991年9月12日)。
ケリー自身は1990年7月、WWEと契約。テキサス・トルネードの新リングネームを名乗り、同年8月、“サマースラム”の大舞台で“ミスター・パーフェクト”カート・ヘニングを下しインターコンチネンタル王座を獲得した(1990年8月27日=ペンシルベニア州フィラデルフィア)。
WWE退団後の1993年2月、ケリーはコカインの不法所持で逮捕・起訴され、すでにほかの薬物不法所持で執行猶予中だったため、裁判では実刑判決が下った。
ケリーはこの裁判の判決後、数日間のあいだに親しい友人、知人の家を訪ねて歩き、理由もなく「アイ・ラブ・ユー」と告げていったという。
その日、父エリックの牧場を訪ねたケリーは「考えごとをしてくる」とだけいい残し、父親のジープを借りて深い森のなかへ消えていった。
エリックが無人のジープを発見したのはそれから約1時間後。ケリーが兄弟たちのもとへと旅立ったあとだった。
●PROFILE:ケリー・フォン・エリックKerry Von Erich
1960年2月3日、テキサス州ダラス出身。本名ケリー・アドキッセン。1978年、大学を1年で中退し、18歳でデビュー。WCWA世界ヘビー級王座を通算4回保持。WWEではカート・ヘニングを下しインターコンチネンタル王座を獲得。1993年2月18日、ピストル自殺。33歳だった。
※文中敬称略
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文/斎藤文彦
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