アルティメット・ウォリアー “小説より奇なり”だった現代の神話――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第81話>
ビンス・マクマホンとの衝突から退団―復帰―退団をくり返し、1993年には“業務上のケガ”を理由にWWEに対して600万ドルの損害賠償を求める訴訟を起こした。ウォリアーは本名を“ヘルウィグ”から“ウォリアー”に改名した。
それから3年後、両サイドは和解し、1996年に再契約を交わしたが、こんどはWWEが数週間でウォリアーを解雇した。
“ウォリアー”の版権・著作権・知的所有権をめぐって法的問題が発生した。ビンスはウォリアーを必要としなくなっていた。
ウォリアーはプロレスからセミリタイヤし、“超保守派”の政治団体のスポークス・パーソンとして大学のキャンパス、企業、地方自治体などで講演会をおこなうようになった。
2014年4月、ウォリアーとビンスは――トリプルHが交渉人となって――再会した。
ウォリアーとデイナ夫人、ふたりの娘はニューオーリンズで1週間のバケーションを楽しんだ。4月5日の土曜の夜、ウォリアーは“WWEホール・オブ・フェーム”インダクション・セレモニーで殿堂入りした。
翌6日の日曜はスーパードームで“レッスルマニア30”を観戦。7日の月曜の夜は“マンデーナイト・ロウ”にゲスト出演してこんなスピーチを遺した。
「どんな人間にも心臓の最後の鼓動を聞く瞬間がやって来ます。最後の呼吸です。その人物が人生においてなしとげたことが、血と肉体を通じ、それを信じてくれた他者のなかに届いたとするならば、語り部たちにより、また誠実な人びとの記憶により、彼の魂は永遠の命を与えられることでしょう」
それはまるでウォリアーがみずからのためにつづった追悼文のようだった。それから24時間もたたないうちに、ウォリアーはこの世を去ってしまった。
ひじょうに衝撃的なラストシーンは、いきなり、そして唐突に世界じゅうのプロレスファンのスマートフォンやパソコンの画面に表示された。トリプルHからツイートだった。
「アルティメット・ウォリアーの死去という悲しいお知らせをしなければなりません。アイコンであり、友人でした。デイナ夫人、ふたりの娘さんたちに心からお悔やみを申し上げます」
●PROFILE:アルティメット・ウォリアー The Ultimate Warrior
1959年6月16日、アリゾナ出身。出生名はジム・ヘルウィグ(1993年に本名をウォリアーに改名)。1985年11月、デビュー。1987年6月、WWEと契約。“レッスルマニア6”でホーガンを下しWWE世界ヘビー級王座獲得。インターコンチネンタル王座2回保持。1992年、WWEを離脱するが1996年に復帰。1998年、フリーの立場でWCW“マンデー・ナイトロ”に登場。2014年4月、WWEホール・オブ・フェームで殿堂入り。“マンデーナイト・ロウ”(4月7日)にゲスト出演し、翌日(4月8日)アリゾナ州フェニックスの自宅に帰ったあと心臓発作で急死。54歳だった。
※文中敬称略
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文/斎藤文彦
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