レックス・ルーガー 裏切りの“トータル・パッケージ”――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第80話>
ニックネームは“トータル・パッケージ”。デビューしたその日からスーパースターの座を約束されていた超大型ルーキーだった。
マイアミ大、ペンシルベニア大でフットボールのスタープレーヤーとして活躍し、大学卒業後はUSFLメンフィス・ショーボーツ、タンパベイ・バンディッツに3シーズン在籍。NFL入りを希望していたが、27歳でプロレス転向を決意した。
レックス・ルーガーというリングネームのイニシャルの“LL”は、ハルク・ホーガンの“HH”を意識した一種のライミング(音韻)だった。ルーガーをコーチしたヒロ・マツダは「3年でホーガン級のスターになる」と太鼓判を押した。
じっさい、最初の数年間はとんとん拍子に出世した。デビューからわずか2カ月でワフー・マクダニエルを下してNWAサザン・ヘビー級王者になった(1985年11月19日=フロリダ州タンパ)。
1987年1月、年俸50万ドルでNWAクロケット・プロと3年契約を交わした。バリー・ウィンダムとの王座決定戦に勝ってWCW世界ヘビー級王者となった(1991年7月14日=メアリーランド州ボルティモア)。
ルーガーの専属マネジャーについたハーリー・レイスは「フレアーよりもホーガンよりも偉大なチャンピオンになる」と目をほそめた。
ルーガーはプロレスラーになるまでプロレスの試合を観たことがないプロレスラーだった。
WCWの試合がバージニア州ノーフォークでおこなわれた日、当時、同地に在住していた“鉄人”ルー・テーズが会場に遊びにきた。選手たちは「テーズが来た! テーズが来た!」と大騒ぎしたが、ルーガーは仲間をつかまえて真顔で「テーズってだれ?」と聞いたという。
1992年、プロ・ボディービル団体WBF(ワールド・ボディービルディング・フェデレーション)を設立したビンス・マクマホンは、この団体の主役としてルーガーをWCWから引き抜いた。
ルーガーはボディービルとプロレスがリンクするところに立つ、まったく新しいタイプのスーパー・アスリートになるはずだったが、WBFは経営不振であっさり消滅。
それから1年後、ビンスはこんどはルーガーを“純アメリカ路線”のベビーフェースに変身させ、ポスト・ホーガン路線の主役候補に大抜てき。
ルーガーを星条旗カラーの大型バス“レックス・エキスプレス”で乗せてアメリカ大陸横断キャンペーンをおこなったが、ファンの反応は“笛吹けど踊らず”だった。
1995年9月、ルーガーはWCWの新番組“マンデー・ナイトロ”の第1回放映分にサプライズ・ゲストとして登場。WCWに電撃復帰した。エリック・ビショフ副社長は「ビンスをやっつけた」と満面の笑みを浮かべた。
ルーガーはその後、“ナイトロ”の連続ドラマのなかでヒールからベビーフェース、ベビーフェースからヒールへとこまかいターンをくり返したが、ソープオペラ化したWCWの主人公になることはなかった。
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