スティーブ・ウイリアムス 不死身のドクター・デス――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第79話>
アメリカのレスリング・ポリティックスを毛嫌いし、日本のリングでその才能を開花させたエリート・アスリート。
新日本プロレス、全日本プロレスの日本の2大メジャー団体で15年以上にわたりメインイベンターのポジションをキープしつづけた。
スティーブ・ウイリアムスにとっていちばんプロレスラーらしい生活とは、1年を通じてアメリカと日本を行ったり来たりすることだった。
ニックネーム“ドクター・デス”はプロレスラーとしてのキャラクターではなくて、学生時代にフットボール部のチームメートからつけられたあだ名だった。
オクラホマ大在学中、秋はフットボール(オクラホマ・スーナーズ)、冬はレスリングで活躍したウイリアムスは、いつも顔じゅうキズだらけだった。
フットボールではオール・コンファレンス、オール・アメリカン選抜に選ばれた。
レスリングではNCAA選手権決勝戦(1982年=ヘビー級)でブルース・バームガートナーBruce Baumgartnerに4-3の僅差の判定で敗れた(バームガートナーはそれから2年後、1984年のロサンゼルス・オリンピックで金メダルを獲得)。
アマチュアのままレスリングをつづけていたら、オリンピックに出場していたかもしれない。
オクラホマ大4年のときにビル・ワットにスカウトされて、1982年夏にいったんプロレスラーとしてデビューしたが、USFLのドラフト指名を受け、ニュージャージー・ゼネラルズ、デンバー・ゴールドの2チームで2シーズンだけプロ・フットボールを経験した。
1984年に再デビュー後は、おもにMSWA地区(ルイジアナ、ミシシッピ、オクラホマ)に定着し、テッド・デビアスとのタッグチームで活躍した。
ボスのワットはウイリアムスを将来の世界チャンピオン候補と考えたが、MSWAミッドサウスはUWFに改称後、NWAジム・クロケット・プロモーションに吸収合併され、ウィリアムスもNWAクロケット・プロ所属となった。
ウイリアムスが目撃したNWAのドレッシングルームは「お山の大将とゴマすり野郎と裏切り者のサウナ」だった。
リングの上でもバックステージでも、レスリングが強いだけではどうにもならない“政治の力学”がうごめいていた。
プロレスの試合だけに集中できる環境として、ウイリアムスは日本のリングを求めた。それはかつてスタン・ハンセンやブルーザー・ブロディが選択したアスリートとしての生き方だった。
ウイリアムスは約4年間、新日本プロレスのレギュラー外国人として活躍し、1990年(平成2年)に“円満トレード”という形で全日本プロレスに移籍した。
ウイリアムスにとって生涯のベストマッチは、三沢光晴から三冠ヘビー級王座を奪取した試合(1994年=平成6年7月28日、東京・日本武道館)ではなくて、そのあとに小橋建太を挑戦者に迎えておこなった同王座初防衛戦だという(1994年=平成6年9月3日、東京・日本武道館)。
ウイリアムスは小橋とのタイトルマッチを「ハートとハートで闘った試合」とふり返った。
1998年にWWEと契約し、全日本プロレスのリングを去った。ウイリアムスをリクルートしたのはオクラホマ時代からの親友で、ウイリアムスのよき理解者のジム・ロス実況アナウンサーだった。
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