意地だけを小倉に残し東京に望みをかける
事情に詳しいヤクザ誌記者は、工藤會弱体化の経緯をこう話す。
「山口組を殲滅せよと、何度も警察庁は各県警に号令をかけましたが、目的は達成できていません。そこで体面を保つための壊滅実績が必要とされ、狙われたのが、活動地域が限定されていて攻めやすい工藤會だったんです」
風土的に荒っぽい人間が多く、警察もヤクザに寛容だった状況が一変した。トップ3が逮捕された今、五代目工藤會の実質トップは、会長代行の本田三秀。他の主要メンバーが次々と収監されるなか、なぜか野放しだ。
「組織を最低限まとめられる人間を誰か塀の外に残しておかないと、警察としてもやりにくいとの判断でしょう」(ヤクザ誌記者)
昨年6月、組員が小倉の街で行った「夜回り」には、どういった意味があったのだろうか。
「まだまだ組織は健在だ、というアピールと、半グレ連中への牽制でしょうね。これは獄中の野村総裁の指示だったという話もありますけど……。ただ、工藤會の主要部隊はいまや東京でシノギをしています。彼らはもう小倉で再起を図る気はないですよ」
工藤會が東京に進出し、代わりにやってくるのがよそ者の山口組と半グレだとしたら……。それは住民の望んだ結果なのだろうか。
<’88年>
・中華人民共和国在福岡総領事館を散弾銃で襲撃。福岡県警元暴力団担当警部宅にガソリンを散布し放火
<’94年>
・パチンコ店や区役所出張所など17か所を連続的に銃撃
<’98年>
・北九州市で漁協の元組合長が射殺される
<’99年>
・溝下秀雄会長時代、工藤連合草野一家から三代目工藤會に改称
<’00年>
・野村悟が四代目会長を継承
<’03年>
・工藤會系組員が暴力団追放運動の旗頭が営む小倉のクラブに手榴弾を投げ込み、11人負傷
<’04年>
・工藤會系幹部が暴力団排除に取り組む県議宅に発砲
<’10年>
・工藤會追放運動を推進していた自治連役員宅に発砲
・福岡県暴力団排除条例が施行される
<’11年>
・田上文雄が五代目会長を継承。野村悟会長は総裁へ
<’12年>
・北九州市で暴排標章を掲示した飲食店への放火や切りつけが相次ぐ
・改正暴対法に基づき「特定危険指定暴力団」に指定される。倉庫にあった装弾済みのロシア製対戦車用ロケットランチャーなどが押収される
<’13年>
・野村自身が受けた整形手術に不満を持ち、担当した女性看護師を元幹部に殺傷させる
<’14年>
・漁協の元組合長刺殺に関与した容疑で田上文雄会長と野村悟総裁が逮捕。翌月に理事長の菊池啓吾も逮捕され、組織のトップ3が不在に
・福岡県警が「頂上作戦」を開始、のち300人以上が逮捕に至る
<’15年>
・実質的トップを担っていた理事長代行の木村博が逮捕
<’18年>
・6月、傘下の組長5人、計7人が小倉の繁華街の「夜回り」を再開。翌月全員が迷惑防止条例違反で逮捕される
・11月、本田三秀が会長代行に
<取材・文・撮影/野中ツトム・五木 源(清談社)>
― 最恐暴力団[工藤會]の今 ―