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<純烈物語>男所帯で夢を追う純烈に重ねる甲子園を目指した情景<第43回>

清原和博に憧れた小学生時代

 1985年8月21日、甲子園球場に詰めかけた5万3000人の大観衆だけでなく、日本中がNHK総合テレビの生中継に釘づけとなっていた。桑田真澄&清原和博を擁す大阪・PL学園と、山口・宇部商業による第67回全国高等学校野球選手権大会決勝戦は、KKコンビ3年の夏ということもあり24.5%の視聴率をはじき出すほどの注目度だった。  試合の方も1対2のビハインドを6回表に宇部商がひっくり返す展開。その裏、清原が4回に続くこの日2本目のホームランをセンター中段にかっ飛ばし、3対3の同点に追いつくというシーソーゲームとなった。  ガッツポーズをとりながらベースを一周するスターの姿に、朝日放送・植草貞夫アナウンサーの「甲子園は清原のためにあるのか!」の名実況が重なる。その瞬間、山口県下関市で一緒に両腕を突き上げて喜んだ小学6年生の男の子こそが、山本だった。  地元代表が優勝を争っているにもかかわらず、相手チームを応援したのは清原にあこがれていたからにほかならない。息詰まる終盤戦は9回裏にPLがサヨナラ勝ちし、KKコンビとしては1年夏に続く2度目の全国制覇を遂げ、高校生活における有終の美を飾った。  山口県勢としては、1958年の柳井以来、27年ぶり2度目の優勝を目前にしての敗北……だが、あの横綱・PLと互角に渡り合った宇部商は郷土の誇りだった。そうした中で山本は、一人決意する。 「将来、絶対PLに入ったるわ!」  当然のごとく、中学では野球部へ在籍。具体的にどうすればPLに入れるのかはわからなかったが、とにかく毎日のようにグラウンドで駆けずり回った。そんな山本が3年の秋を迎えた頃、思わぬ人物が目の前へと現れる。宇部商を甲子園に導いた玉国光男監督だった。  あの時、桑田&清原と真っ向勝負を繰り広げた人物から「宇部商で野球をやらんか?」と言われたら舞い上がるのも無理はない。光の速さで「いきます!」と答えた。そこは「PLにいくんじゃなかったのかよ!」などと突っ込むのも酷である。  なんの因果か、PLで野球をやるつもりがその対戦相手の方に導かれるというなかなかの運命。中学を卒業すると、下関の実家を出て宇部で下宿生活をスタートさせる。  若さゆえホームシックにもなったが、当時の山口県内で甲子園にいくとしたら宇部商がもっとも近道。強豪校ならではの厳しいレギュラー争いにも勝ち抜き1991年、3年の夏に夢をつかんだ。
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甲子園の土を踏んだ第一印象は……
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(すずきけん)――’66年、東京都葛飾区亀有出身。’88年9月~’09年9月までアルバイト時代から数え21年間、ベースボール・マガジン社に在籍し『週刊プロレス』編集次長及び同誌携帯サイト『週刊プロレスmobile』編集長を務める。退社後はフリー編集ライターとしてプロレスに限らず音楽、演劇、映画などで執筆。50団体以上のプロレス中継の実況・解説をする。酒井一圭とはマッスルのテレビ中継解説を務めたことから知り合い、マッスル休止後も出演舞台のレビューを執筆。今回のマッスル再開時にもコラムを寄稿している。Twitter@yaroutxtfacebook「Kensuzukitxt」 blog「KEN筆.txt」。著書『白と黒とハッピー~純烈物語』『純烈物語 20-21』が発売

純烈物語 20-21

「濃厚接触アイドル解散の危機!?」エンタメ界を揺るがしている「コロナ禍」。20年末、3年連続3度目の紅白歌合戦出場を果たした、スーパー銭湯アイドル「純烈」はいかにコロナと戦い、それを乗り越えてきたのか。

白と黒とハッピー~純烈物語

なぜ純烈は復活できたのか?波乱万丈、結成から2度目の紅白まで。今こそ明かされる「純烈物語」。

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