エンタメ

<純烈物語>福岡~沖縄、そして大阪へ―― 波乱万丈、純烈マネジャー20代流浪記

純烈山本マネジャー

<第44回>福岡から沖縄、そして大阪へ――流浪を続けた純烈マネジャーの二十代

 宇部商の主砲というだけでなく、甲子園出場の実績を持つとなれば芸能界であってもそこは誰もが食いつく。おそらく山本浩光は、これまで何万回と「プロでやろうとは思わなかったんですか?」という質問に答えてきたのだろう。  外から見るのと経験した者とでは“プロ”の概念が天と地ほど違う。ひとことで表すならば、そこは「別世界」となる。  野球が好き、巧い、詳しい……。確かにどれも必要なものだが、どのジャンルもそういったアドバンテージを超越したところでプロフェッショナルの仕事は成り立っている。  そう考えると、素人集団だった純烈が芸能界というプロの世界で生き抜いていることのすごさが改めて実感できるはず。成長と挫折を繰り返す中で、それでも前に進もうとする姿勢で数々の正攻法を超越し、常識の向こう側へと駆けてきた。  名門で4番を打った自分でさえ手の届かなかったプロの世界で、キャッチボールもやったことがなかったような1回戦チームが甲子園を目指す姿に虜となったのはわかる気がする。もしかすると純烈は、そんな山本がやり残した青春の忘れ物を具現化するために出逢うべくして出逢った盟友たちなのかもしれない――。  九州産業大学に誘われた山本は加盟する福岡六大学野球連盟で1年目から頭角を現し、1993年秋、1994年春、1996年春と3度もベストナイン(指名打者)に選ばれている。それほどの活躍を見せながら、チームとしては大学野球の甲子園に当たる神宮球場(全日本大学選手権)にはいけなかった。  山本が在籍した4年間は、九州共立大が8期中7度の優勝を遂げるほどの黄金期だった。全国大会への出場はならなかったが、この4年間も山本は野球を楽しめた。夜中に腹が減ると、車をニュートラルにして4人で100mほど移動させ、音が聞こえないあたりでエンジンをかけラーメンを食べにいく。  ここでも門限破りという「縛りの中で見つける楽しさ」を仲間たちと味わった。一方で、野球に対する決定的な経験をしたのもこの頃。2年の時、全日本チームの合宿へ参加する機会を得た。そこで山本は、次元の違う世界を目の当たりにする。
次のページ
稲葉、高橋由、今岡……大学ジャパン合宿で見せつけられた現実
1
2
3
Cxenseレコメンドウィジェット
おすすめ記事