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<純烈物語>福岡~沖縄、そして大阪へ―― 波乱万丈、純烈マネジャー20代流浪記

「こう見えても人見知りなんです」

 ここまでの流れを見て気づくと思われるが、山本は培ってきたものをゼロにし、別のことをイチから始めることを苦にしていない。野球を続けろと言われたら続け、それ以外も初歩的なところから学んでいった。言うまでもなく、その性格は芸能界に入ってからも生かされた。 「地元の同級生も生まれた場所からなかなか出たがらんのです。その方がいろいろわかっているからラクなのに対し、他府県だとわからないことがいっぱいあったり融通が効かなかったりでシンドい。でも、僕はそこに関してまるで抵抗がなかったんですね。郷に入れば郷に従えで、だから沖縄にいくのも迷いはなかったです。  僕はこう見えて人見知りで、仲よくなるには時間がかかるタイプなんです。でも時間をかけて仲よくなると、みんなによくしてもらえました。沖縄も最初は“ヨソ者が来た”っていう感覚で、口も聞いてもらえないようななかで野球をやって、それがいつの間にかすごくようしてくれたという思い出ですね」  調理の方は子どもの頃、親が共働きだったため自分でガスコンロをカチャカチャやっていたこともありもともと好きだった。寮生活の中で自炊も経験。皿洗いから始めて料理人としての修行を積み、最終的には鮮魚の岩塩焼きぐらいはお手の物となった。  こうして野球も続けていたが、料理屋で働き始めて半年ほどが経った頃にちゃぶ台をひっくり返したくなるようなことが起こる。沖縄に移住してしばらく、山本はクラブ関係者のセカンドハウスに住み込んでいた。  そこには高卒でやってきたルームメイトもいたのだが、生活する上での感覚の違いに耐えられず、山本の方がそこを出てひとり暮らしを始める。数日後、家の管理者から「あんなに部屋の中をグチャグチャにして、どうなってんだ!?」と、電話がかかってきた。  二人は1階と2階に分かれて住んでおり、2階は山本がチリひとつ落ちていないぐらいしっかりと掃除していた。反論したものの、この件がきっかけで人間関係がギクシャクし「もうええわ!」と頭の中で感情が暴発。沖縄で1年続けた野球もやめてしまう。  さて、これから何をしたらいいか。パチンコ好きの山本は、それに関する仕事がしたいと思い立ち、業界の知り合いに当たってみた。メーカーである「株式会社平和」の九州支社(博多)へ面接にいったところ「ウチは人がいっぱいで新入社員は採れないけど、大阪に1人欠員がいるからそちらなら入れる」と言われ、その場で「いきます」と即答。  下関―博多―沖縄―大阪。高卒後の山本は旅人のように流浪していった。知らない土地における順応力も、全国を巡る純烈のマネジャーとして生かされているといったらこじつけだろうか。  ここで大阪に出る決意をしなかったらその後、山本はG-STAR.PROの社長と出逢っておらず、純烈とはまったく違う世界にいたに違いない。時は1998年……酒井一圭はこの4年前に芸能活動を再開し、3年後に『百獣戦隊ガオレンジャー』へ出演、白川裕二郎は2年前に大相撲を引退後、俳優としての道を歩み始める。小田井涼平は絶賛仙台赴任中、そして後上翔太にいたっては、当時まだ12歳だった。 撮影/ヤナガワゴーッ!
(すずきけん)――’66年、東京都葛飾区亀有出身。’88年9月~’09年9月までアルバイト時代から数え21年間、ベースボール・マガジン社に在籍し『週刊プロレス』編集次長及び同誌携帯サイト『週刊プロレスmobile』編集長を務める。退社後はフリー編集ライターとしてプロレスに限らず音楽、演劇、映画などで執筆。50団体以上のプロレス中継の実況・解説をする。酒井一圭とはマッスルのテレビ中継解説を務めたことから知り合い、マッスル休止後も出演舞台のレビューを執筆。今回のマッスル再開時にもコラムを寄稿している。Twitter@yaroutxtfacebook「Kensuzukitxt」 blog「KEN筆.txt」。著書『白と黒とハッピー~純烈物語』『純烈物語 20-21』が発売
純烈物語 20-21

「濃厚接触アイドル解散の危機!?」エンタメ界を揺るがしている「コロナ禍」。20年末、3年連続3度目の紅白歌合戦出場を果たした、スーパー銭湯アイドル「純烈」はいかにコロナと戦い、それを乗り越えてきたのか。
白と黒とハッピー~純烈物語

なぜ純烈は復活できたのか?波乱万丈、結成から2度目の紅白まで。今こそ明かされる「純烈物語」。
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