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<純烈物語>トータルプロデュースがひとつの共通項。作家とリーダーに流れる気質<第50回>

純烈酒井

<第50回>トータルプロデュース気質と音楽に対する分け隔てのない姿勢……幸耕平と酒井一圭の共通項

「純烈のファンは、僕の唄は知っていても僕のことは知らないでしょうね。僕は顔も出さないし、なるべくなら名前も出さないようにしているから」  いつも愛弟子たちがレッスンを受けにくるという事務所の部屋に通され、挨拶を済ませたあと質問を振るよりも先に、幸耕平先生(以下敬称略)からそんな第一声が聞かれた。確かにその経歴は公式ウェブサイトとウィキペディアへ簡潔にまとめられたテキストがアップされている以外、あまり語られていない。  わずかながらのデータからは、大学時代にアマチュアグループで活動をスタートさせ、いわゆるメジャー仕事も経験したことがうかがえる。ロックバンド在籍時には、日本で初となる野外フェス「つま恋」の5万人コンサートなども経験。平沢進のように孤高の道を進みながら支持されるケースもあるが、ほとんどのミュージシャンは目立ってナンボの土壌でやっている。  表舞台の味を知りながら、作曲家に転身したあともテレビ出演や審査員の依頼を断ってきた。それにより「僕の偽物が滋賀や長野に出たそうなんですよ」と、想定外の事態も招いている。  要は幸の名を騙り、審査員席に座ろうとする輩らしい。本人が顔出しをしていないから、バレないと思っているのだ。  ジミ・ヘンドリックス、エリック・クラプトンが音楽における初期衝動だった幸。ザ・ビートルズやエルビス・プレスリーも押さえてはいたが、影響を受けたのは前者のアーティスト。  クラプトンが在籍したバンド、クリームの影響もありロックバンドを組むうちにキューバのラテンミュージックへ傾倒。それは、アメリカやイギリスの音楽と比べるとマニアックなジャンルであり、ヒットチャートの上位に来るものではないから入手するにも一苦労だった。  現在のように、ネット上でいくらでも見つけられる時代ではない。たまたまラジオから流れてきたのを聴き「これはいい!」と思っても、レコード屋には置かれておらず。輸入品を買い込むほどのお金もなかったので、ラテン音楽を演っている人たちのところまでいって学んだ。  言うなれば、幸にとって青春の音楽となる。それを自身が手がけた純烈2枚目のシングル『純烈のハッピーバースデー』で生かしたのだ。あの明るいサウンドとノリは、明らかにラテンのグルーヴ感によるもの。 「1曲目の『プロポーズ』と同じですよ。純烈のファンの気持ちになること。50歳をすぎても誕生日はやってくる。それがハッピーバースデーになるには……と、おばちゃんたちが喜ぶことばかり考えたのがあの歌詞。いくつになってもハッピーな誕生日になるよう、今まではそんなにしあわせじゃなかったとしても僕だったらしあわせにしてあげられるかもしれないという、夢の投げかけです」  ちなみに、なぜこの曲だけ“純烈の”とタイトルに入れたのか聞くと、酒井一圭と話すうちに「ハッピーバースデーは世の中にいっぱいあって、どのハッピーバースデーなのかわからないから“純烈の”をつけよう」となったとのこと。単純な理由だった。  バンドとしての活動とともに、幸はスタジオミュージシャンを続けていた。そんな中、作詞家である松本礼児に当時、アイドルとして絶頂期にあった石野真子の曲を書いてみないかと誘われる。
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