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<純烈物語>歌と向き合い、最愛の母を気遣う……コロナ禍での白川裕二郎の孤独な闘い<第65回>

追い打ちをかけるように母が倒れた

 だが白川の場合、不安を超えた怖さも抱く境遇にあった。愛してやまぬ母の存在である。  年配の人ほど、コロナにかかった時のリスクは高い。ほかが有観客イベントを再開しても、純烈がそこに手を出さないのはオーディエンスの年齢層を考慮しているからだ。 「お仕事をやらせてもらえるのは本当にありがたいことなんですけどその分、リスクもありますよね。志村けんさんや岡江久美子さんのように芸能界でも亡くなられた方がいて、そういうニュースを聞くと他人事とは思えなくなるし、僕の近くの人……友人の友人が飲食店をやっているんですけどコロナになってしまって、相当に大変だったという話を聞いて。  その人は60歳手前でまだ体力があったから回復できたんですけど、おふくろは87歳。僕がわからないうちに感染していて、実家に帰った時にもし移してしまったらということを考えて、ずっとその怖さがあったんです。なので僕は実家に帰らないようにして、姉が帰った時に状況を聞いていたんですけど、7月に母が倒れて……そのときも、家に帰ったら気をつけて、うがい、手洗い、消毒をちゃんとしてくれって姉に言いました」  母が倒れた時、姉から「コロナかもしれない」と聞かされた時は血の気が引いた。もしかすると自分が移してしまったのだろうかとも考えた。  動転したが検査の結果、コロナではなかった。とはいえ体調が悪いのは変わりなく、すぐに入院させた。仕事が激減し、ファンとも会えずその上、母の容態が気になるとあり、この3カ月ほどの白川は精神的にキツい状態が続いた。それでもメディアの前に立つと、不安を笑顔で隠した。

空いた時間をボイトレに使うも、新たな悩みが

 リモート出演を除くと、緊急事態宣言中の1ヵ月半ほどは本当に時間が空きまくった。その間はやろうと思いつつも忙しさでできぬままにいたDIYへ着手。大好きな釣りは乗合船がコロナの影響で休業しまったくできず、趣味によってストレスを発散させることもかなわなかった。  時間に追われる日々から一転した白川は、歌についてより考えるようになった。そしてボイストレーニングもこの機にと、より積極的に重ねたのだが……。 「デビュー10年でなんとか自分の音を合わせる感覚がつかめるかなと試行錯誤している時間が多かったですね。プラスになるにはどういうふうにしたらいいのかとか……でも、それがなかなかで、どうしても自己流に戻ってしまったりしていました。  自粛期間が終わって先生のところにいくと、歌い方が戻っている。自分ではこう進んでというつもりでいても第三者が聴いたら後退していて、あーあ……みたいなね」  観客の前で歌う機会を失い、トレーニングの成果を発揮する場がない影響が如実に出ていた。聴き手のリアクションが望めず、自分の物差しでやることにより自己満足してしまったと白川自身は分析する。  ただでさえ「僕は今でもそうなんですけど、自分の歌に対し怖いんです」というほど慎重かつ生真面目な男である。やっていることが正しいかどうか、その過程を見てくれる人にコロナの影響でなかなか会えなくなった中でのトレーニングは、プロであるがゆえのシンドさがまとわりついた。 「今日はここまでやったからこれでいいやと思っても、それってただ時間を長くやっているだけなんですよ。2時間やりましたといっても、先生やわかる人に見てもらったらその半分で済むことだったりとか。自分ではわからない中でひたすらガムシャラにやるみたいなのは別に悪いことではないんでしょうけど、よりよく効率的なものをこの期間はやれなかった気がします」  どうしても声が出ない、声が出づらい、音を外していると気づくと、その感情がにじみ出て顔が強張る。歌っている最中はそんなことを考えずにやればいいと自分でも思うのに「ヘンなスイッチが入ってしまう」。それが嫌で、この期間中に頑張って改善しようと努めたのだが、今のところ理想とする成果はあげられていないという。
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