恋愛・結婚

僕と僕の係長/でこ彦<第3話>「男にも女にもなれない僕は居場所を失ったコウモリだった」

―[僕と僕の係長]―
 青年は恋をした。相手は職場の係長。妻がいて、子どももいる。勢いあまってゲイであると告白しても、係長は「おや、そう」と驚きながらも受け止めてくれた。そればかりか、「お前が女だったら」とも言ってくれた。  青年は恋をした。でも相手はみんなの係長。  僕だけの係長であってほしい。そう願う青年の、実話に基づく純愛物語、ここに開幕。

【第3話】「男にも女にもなれない僕は居場所を失ったコウモリだった」

 一緒に飲んだ日の別れ際、僕の係長が「このあと俺は風俗に行くわ」と言うのでやめるよう懇願した。 「なんで」  心の底から不思議そうだったが、言い淀んだ僕が愛の告白を始めそうになるのを察したのか「お前は行かないの、ゲイ用の、そういうお店」と話を変えた。 「行きません」  嘘をついた。係長が僕との約束をすっぽかして風俗嬢とのデートを優先させたとき、怒りに任せて行ったことがあった。全裸でオイルマッサージを受けるサービス。気持ち良くはなかった。 「好きな人としかそういうことをしたくないんです」と答えたのは本心だった。僕は射精をしたいのではなく、好きな人の肉体を感じたいのだ。 「お前って本当に、」と一瞬だけ逡巡したのち「気持ち悪いな」としみじみ漏らした。 「まあいいや、今度から行くときはお前には教えん」 「いやだ。行くなら行くで教えてほしい」  はいはい、とあしらわれ、係長はATMに寄ると言って消えていった。  中学1年で初めて英語を習い、主語は男女共通で「アイ(I)」だと教わったとき、英語圏の人はズルいと思った。一人称に悩む必要がないのである。羨ましかった。  小学校を卒業するまでずっと自分のことを「律(りつ)くん」と呼んでいた。「僕」や「俺」と言うのが恥ずかしかったのだ。自分は男だとことさらにアピールをするようで、誰かから「おかまのくせに」とからかわれるのではないかと不安だった。  とはいえ「くん付け」も幼稚に違いなかったが、変えたと周りにバレるのもまた恥ずかしかったため、中学進学のタイミングを待つことにした。入学式の自己紹介から「うち」になった。  家では「律くん」のままだったが、どういうわけか1週間も経たないうちに家族の耳に入り、「恥ずかしいからやめなさい」と叱られた。悩んだ結果、一人称を使わない会話を心がけるようにした。主語の省略可能な日本語がありがたかった。  中学校では制服の第1ボタンを開けていると先輩にしめられると聞いた。リュックの色や笑い方がおかしくてもしめられるらしい。先輩という得体のしれない存在、しめられるという未知の動詞。いつ誰に何をされるのか知っている人間はいなかった。学ランの喉元のフックやカラーは硬く痛く息苦しかった。  出席番号が50音順に、席列は男女別に分けられた。入学式の日に「セーラー服は随分と涼しそうだな」と横目で見ていると、後ろの席の男子が背中をつついた。「おかまはあっちに座れ」と殴られるのではないかと肝を冷やしたが、そうではなかった。 「部活決めた?」  それが熊谷くんだった。熊谷くんは地元の中学校にサッカー部がなかったので、はるばるこの学校へ越境入学をしてきたということだった。お互い、周りに知り合いの男子がいないという状況が共通していた。彼は第1ボタンを外しており、カッターシャツの下の黒い肌着が印象的だった。  僕は本当は美術部に入りたかったが、「まだ考えてない」と答えた。せっかく先入観なく話しかけてくれたのだから、まともに見えるように振る舞いたかった。「ふうん」とつまらなさそうだったので「でも小学校ではバスケやってた」と見栄をはった。  僕に男友達が初めてできた。  理科室で顕微鏡を覗く熊谷くんの隣に立ち、彼の薄い唇に見入った。まがりせんべいのように大きい耳は給食当番のマスクを着用するとより目立った。テストの点数を見せ合うとき、ニキビ跡もホクロもないすべすべの頬しか目に入らなかった。男友達として接してくれているのに、内心でそんな欲望を隠し持っていることが、裏切り者のスパイのようで罪悪感を抱いた。  これは「憧れ」だと思うことにした。決して恋ではない。
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近所の書店で「思春期の心と体」に関する本の立ち読みをした
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'87年生まれ。会社員。Webメディア『telling,(テリング)』で「グラデセダイ」を連載中。好きな食べ物はいちじくと麻婆豆腐

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