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甲子園のエースは引退後、外車の営業マンに「頭を下げることから始めたかった」

 90、91年と沖縄水産2年連続準優勝メンバーだった大野倫は、91年にはエースとして一回戦から決勝までの6試合、たったひとりで773球を投げ抜いた。骨折をしながらも投げ抜き、その後、投手生命は絶たれた。前編では、大学入学からドラフトで巨人入りまでの大野に迫った。今回はダイエーホークス(当時)へのトレードから引退。そして今の大野倫について迫った。

プロ入り6年目にして初の開幕スタメンを勝ち取る

大野倫

長嶋茂雄監督(当時)と握手をする巨人時代の大野倫

  巨人からトレード通告されたとき、茫然自失では収まらないほどのショックを大野は受けた。当時のプロ野球はトレードに関してネガティブであり、トレードは球団に捨てられた者同士の交換というイメージがまだまだあった。まさに晴天の霹靂だったが、大野は球団のトレード通告を素直に受け入れるしかなかった。 「王監督からは巨人ということもあって、よく声をかけてもらいました。何球団も渡り歩いたコーチの森脇(浩司、現ロッテ一軍野手総合兼内野守備コーチ)さんからも事あるごとに『トレードで来た選手は最初慣れるまで大変だろうから、何かあったらすぐ言いに来いよ』と言っていただき、非常に有難かったことを覚えています。    多かれ少なかれ、どこの球団でもあると思いますが、外様という壁はあるんだなと感じました。あとホークスに来て思ったのは、巨人の二軍といえども環境は恵まれていたんだなと。ホークスも常勝へかけ上げろうとしていた時期だったのでパリーグの他球団よりは整備されていたと思いますが、それでもローカル球団の現実を知りました」 都落ちとまでは言わないが、当時はまだローカル球団のイメージが残っていたダイエーホークスへとトレードされた大野は、慣れるのに時間がかかったという。ただ、学生時代過ごした福岡ということもあり、最高峰の野球ができるステージであればどこでも一緒だと割り切り、一軍定着を目標にガムシャラにバットを振った。その甲斐あってかトレード初年度のプロ6年目にして初の開幕スタメンを勝ち取ったのである。しかし結果は残せず、すぐにスタメンを外されてしまった。

今日のおまえの三振は人生の見逃し三振だ!

「7年間のプロ野球人生の中でも最も忘れられないシーンがあります。プロ野球人生最後となる打席です。福岡ドームでの日ハム戦で、試合序盤に急遽、代打を告げられて慌てて打席へ入ったんですが、準備不足でボールに反応できず、見逃しの3球三振。試合後、王監督に呼び出され、『今日のおまえの三振は人生の見逃し三振だ』と言われ即刻二軍行きを命じられました。その後二度と一軍に呼ばれることはなく、秋に戦力外通告になりました」  大野は、王監督から叱責を受けた言葉を人生の教訓として今でも胸に強く刻んでいる。見逃し三振といえば、5年目の中日戦でプロ初ホームランを打った後の1死1、3塁の打席で見逃し三振をし、二軍行きを食らっている。同じ三振でも積極的に振っての三振は良しとされるが、準備不足の見逃し三振ほど始末に負えないものはない。最後の“見逃し三振”は大野の野球人生を大きく変えることとなった。 「最後の年は自分でもなんとなくわかってました。毎年、夏の終わりから9月にかけて編成部長の目線になって選手を査定すると、結構当たるんです。それで最後の年、“大野編成部長”が査定すると、自分が自由契約候補の3番目に該当したんです。29歳で開幕から一軍に一度も呼ばれてないですから。  実際、宣告されたときは、これで野球から解放されるというホッとした思いが先に沸きました。野球選手っていうのは、野球を辞めてから絶対に野球がやりたくなるものなので、思いを全部断ち切るためにもトライアウトを受けました。それも2回とも受けましたから。後であれやっとけばよかったと思わないようにするためです。辞めてからも後悔したくないですから」  野球に対して少しの未練も残さないためにも、トライアウトを2回受けるなどして現役続行のチャンスはすべて挑んだ。「チャンスを自分でことごとく潰していった感じですね」と大野は言う。幼き頃からやってきた野球を自らの意思では続けることができないみじめさ、辛さ。年齢的に29歳。第二の人生をしっかり歩むためには、一片たりとも気持ちを残してはいけないと思い、すべてのチャンスに挑み、潰していった。
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