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元プロ野球選手初の公認会計士「プロ入りがゴールだったことを後悔している」

移籍の打診を断って引退

「2年目のシーズン最終戦になんとか投げることができ、黒潮リーグで就任したばかりの野村監督から『小山2世』と評価されて、若手強化選手の一員として修善寺の競輪学校で特訓させられました。そのときは、ひとつ下の(藤川)球児、ひとつ上の関本さん、あと3つ上の(田中)秀太さんもいましたね。翌年の春のキャンプに一軍に抜擢され、オープン戦終盤まで一軍帯同でした。ここがパフォーマンスのピークでした」
奥村武博

現役時代の奥村氏 写真提供/月刊タイガース

 現役引退後、阪神のバッティングピッチャーに採用されたが、たったの1年でお払い箱となった。星野阪神2年目のオフに「改革」と題した血の入れ替えを星野監督が決行したため、その巻き添えを食った形だ。 「他球団へ移籍の打診という話もありましたが、他でも1年でクビになる可能性があるならと断りました。野球へのけじめとしてトライアウトを受けました。背番号3桁で受けたのは私だけだったと思います」  もはや、選手たちの“けじめの場”として形骸化しているトライアウト。当時はトライアウトが2回開催され、奥村は2回目のトライアウト会場が甲子園だったということもあり、感慨深い思いを抱きながら甲子園のマウンドに立ち、現役生活に別れを告げた。 「今思えば、プロ野球選手になることがゴールになってしまい、本来なら次のステージに明確な目標を掲げるはずなのに、意識が遊びの方面へと行ってしまったという後悔の念があります。2年目の秋の調子のまま、マインド設定を変えられていたら、もっとこうなっていたかもしれない……という思いはあります。もう一度プロ野球選手になった時点に戻れるとしたら、一軍で活躍するというおぼろげな設定じゃなく、何年目で一軍に上がって何勝する、その後メジャーに行くという明確な設定をすることで、その間のプロセスも変わってくるためもっと成長できたと思います。そこに対しての後悔はめちゃくちゃありますね」

引退後に待ち受けていた茨の道

 18歳でプロに入り、右も左もわからない奥村は、まずは一軍で活躍して引退したら解説者や指導者になって生きていけるという思いしかなかった。本来なら一軍でバリバリ投げられるようになるためにタイムスパンで考えなければならない。そうすることで現状と見比べながら足りない箇所を一個ずつ強化していくマイルストーンが設定され、より効率的に目標へと向かうからだ。超一流選手は別として、一軍でレギュラーを張る選手は皆そうしている。  漠然と過ごしたプロ生活は怪我との戦いもあって4年間で自由契約、バッティングピッチャーもたったの1年でクビになり、23歳で世間に放り出された。年齢的には一浪して大学を卒業したと思えば、まだまだ大丈夫……。奥村はそう軽い気持ちでいた。しかし、ここから苦難の道のりを歩むことになるのだった。<取材・文/松永多佳倫>
1968年生まれ。岐阜県出身。琉球大学卒。出版社勤務を経て2009年8月より沖縄在住。最新刊は『92歳、広岡達朗の正体』。著書に『確執と信念 スジを通した男たち』(扶桑社)、『第二の人生で勝ち組になる 前職:プロ野球選手』(KADOKAWA)、『まかちょーけ 興南 甲子園優勝春夏連覇のその後』、『偏差値70の甲子園 ―僕たちは文武両道で東大を目指す―』、映画化にもなった『沖縄を変えた男 栽弘義 ―高校野球に捧げた生涯』、『偏差値70からの甲子園 ―僕たちは野球も学業も頂点を目指す―』、(ともに集英社文庫)、『善と悪 江夏豊ラストメッセージ』、『最後の黄金世代 遠藤保仁』、『史上最速の甲子園 創志学園野球部の奇跡』『沖縄のおさんぽ』(ともにKADOKAWA)、『マウンドに散った天才投手』(講談社+α文庫)、『永遠の一球 ―甲子園優勝投手のその後―』(河出書房新社)などがある。

92歳、広岡達朗の正体92歳、広岡達朗の正体

嫌われた“球界の最長老”が遺したかったものとは――。


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