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阪神暗黒時代の守護神・田村勤。「怪我に泣いた」からこそ選べた第二の人生

投げれば勝つと言われた田村勤の快進撃

田村勤

92年の阪神を語るうえで外せない存在である守護神、田村勤。現在は整骨院を開業している

 92年開幕から田村は投げ続けた。田村が投げれば勝つという不敗神話が生まれ、阪神は快進撃を見せる。だが、不敗神話は永遠には続かない。  130試合制の中間64試合目、6月28日の甲子園での対中日戦。2点リードの9回に登場したが、4失点で初黒星を喫する。敗戦後のベンチ裏スロープで田村はふいに笑顔を見せた。微笑みというより苦笑いに近いもの。すでに限界に達していたのだろう。「投球に好不調はあるが、気力に波はない」が田村の口癖だったが、もうどうすることもできなかった。この1週間後の7月9日の大洋戦から登録抹消となり、再び一軍に戻ることはなかった。  92年は実働3ヵ月でありながら、24試合登板 5勝1敗14セーブ 防御率1.10 投球回数41 奪三振53という脅威の数字を残した。守護神田村を失った阪神はそれでもどうにか首位戦線に残り、残り4試合でヤクルトと同率首位に並ぶ。事実上の優勝決定ゲームである10月7日の直接対決で阪神9回まで2点リードで試合を進めるも、ストッパーとして登板した湯舟、中西が打たれ、悪夢の逆転サヨナラ負け。その3日後にヤクルトは優勝を飾ったのであった。  85年の日本一以降、阪神はまるでパンドラの箱を開けたかのように災いが降り掛かり、暗黒時代へと突入してしまった。長く暗闇の中を模索している最中、一筋の光が舞い込んで来る。左のサイドスローから繰り出す閃光眩しいクロスファイヤーの弾道。それこそパンドラの箱の最後片隅にあった“希望”の光であった。その光はそれまで漆黒の闇に包まれていた阪神ファンの心を光り輝くほどに照らしたのだった。92年は、阪神ファンにとって最も優勝に近づき、最後まで夢を見させてくれた価値あるシーズンだった。阪神ファンは今でも声を高らかに言う。 「田村が最後までいたら絶対優勝してたで!」 

抱えていた肘の爆弾が……

 翌93年は完全な抑えとなり、1勝1敗22セーブ 防御率2.50、球団記録の10連続セーブポイントを記録するなど、名実ともに守護神としての立場を確立する。しかし、デビューしてから実質3年の実働により田村の肘はどうしようもない爆弾を抱えてしまった。肘内側側副靱帯部分損傷。田村にとって……いや、速球投手の宿命ともいえるケガだ。引退するまで長くつきまとった業のようなものだった。94年は僅か11試合の登板となり、95年は丸々1年間リハビリに費やすこととなった。 「94年に肩がおかしくなって、今、冷静に考えると最初から肩が悪かったのかも。もちろん肘に負担がかからないように抜いて投げるようにしていたんで、それで肩が痛めたという面と、もともと肩も悪かったと……。94、95年の2年間が一番苦しかったですね。」  96、97年は主にショートリリーフとして2年間で90試合登板する。全盛期に及ばないものの、投げられる喜びだけで田村はある種満足だった。だが98年、またもや肘痛が再発しリハビリのため1年間戦線離脱。 「リハビリ中はモチベーションを保てないときもありましたけど、プロというのは夢の世界であって怪我で悩めること自体、幸せなことなんですよ。野球関係者以外の知人から『別に草野球で肩が痛いんじゃなく、プロ野球の世界で肩が痛いんだから、いいんじゃないか』と言われ、そりゃそうだなと。前向きに投げられることだけ考えようと素直な気持ちでいるように心がけました」
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田村勤が選んだ第二の人生
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