更新日:2021年02月18日 09:27
スポーツ

阪神暗黒時代の1992年、 あと一歩で優勝を逃した絶対的守護神の苦悩

阪神暗黒時代唯一の優勝争いをした1992年

田村勤

現在は整骨院を開業し、子供たちのケアなど行っている田村勤さん

 日本一熱狂的なファンを持つ阪神タイガースの優勝といえば、今から36年前の1985年日本一が今や神話として語り継がれているほど強烈なインパクトを与えた。クリーンナップのバース・掛布・岡田のバックスクリーン3連発に象徴される猛虎打線がペナント序盤から爆発し、圧倒的な打力で21年ぶりの日本一を飾ったのだ。  この阪神の優勝に野球界は騒然とし、しばらく阪神の天下が続くかと思われた。しかし、日本一を飾った2年後から阪神の暗黒時代に突入することとなる。2003年に優勝するまでの16年間でAクラスは1度、5位は2度、最下位は10度という体たらく。西の雄が聞いて呆れるほどの最弱だった。  そんな暗黒時代の中で唯一優勝に近づいた92年はバブル経済が弾け出し日本全体が混迷の最中、甲子園球場では歓喜の雄叫びが弾けまくっていた。たった一度きりの光輝を放った“92年”について、絶対守護神の左のサイドスロー田村勤を抜きにしては語れない。生粋の阪神ファンにとって忘れられない名前だろう。 「現役時代、最低でも今の知識を知っていたら故障も防げたんじゃないかなと」  田村は、人懐っこい笑顔でゆっくりと口を開く。現役時代に老け顔と揶揄されていた面持ちがやっと年齢に追いついた感じだ。

ホロ苦い守護神としてのデビュー

 絶対的守護神のデビューはホロ苦いものだった。ルーキーイヤーの91年4月16日、広島球場での対広島戦。2番手で6回から登板。打席にはカープの主砲で左打ちの小早川毅彦。カウント1ボールからの2球目のカーブをものの見事にライトスタンドに運ばれた。ホームランを打たれた後、次の山崎隆三には二塁打を打たれ、三塁ベンチから大石清ピッチングコーチがマウンドへやってきた。 「前日、たまたまマイク(仲田)が部屋に遊びにきていて、いい機会だからプロのピッチャーの考えた方を聞いてみると『マウンドに一度上がったら代えられたくないよな』って言うんです。あれだけ乱調で交代させられたりするのに、代えられたくないって凄いなぁ。それくらいの気持ちでいかなきゃいかんのだと思ったんです」  大石コーチがマウンドへ近づいたときに、田村は前日のマイクの言葉がなぜか脳裏に浮かび、突飛な行動に出る。「交代やで~」と言う大石コーチに対し、知らん顔の態度を取った。「おい、交代言うとるやろ」と言われてもそっぽ向く。しまいには大石コーチが「おい、こら! 交代言うとるやろ、ワレ!」とキレて怒鳴り出す。  試合終了後、バスに乗ろうとした際に大石コーチから「あとで部屋へ来い」と田村は言われ、二軍落ちを覚悟して部屋に行くと、ニコッとした顔で大石コーチが言う。 「おい、おまえ、あの状態でまだ投げたかったんか!?」 「はい、投げたかったです」 「お~明日からまた投げさせたるわ! 帰っていいよ」  てっきり二軍落ちを言い渡されると思った田村は予想だにしていなかった言葉に、ただただ驚くしかなかった。
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ルーキーイヤーは大車輪の活躍
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1968年生まれ。岐阜県出身。琉球大学卒。出版社勤務を経て2009年8月より沖縄在住。最新刊は『92歳、広岡達朗の正体』。著書に『確執と信念 スジを通した男たち』(扶桑社)、『第二の人生で勝ち組になる 前職:プロ野球選手』(KADOKAWA)、『まかちょーけ 興南 甲子園優勝春夏連覇のその後』、『偏差値70の甲子園 ―僕たちは文武両道で東大を目指す―』、映画化にもなった『沖縄を変えた男 栽弘義 ―高校野球に捧げた生涯』、『偏差値70からの甲子園 ―僕たちは野球も学業も頂点を目指す―』、(ともに集英社文庫)、『善と悪 江夏豊ラストメッセージ』、『最後の黄金世代 遠藤保仁』、『史上最速の甲子園 創志学園野球部の奇跡』『沖縄のおさんぽ』(ともにKADOKAWA)、『マウンドに散った天才投手』(講談社+α文庫)、『永遠の一球 ―甲子園優勝投手のその後―』(河出書房新社)などがある。

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