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元プロ野球選手初の公認会計士「プロ入りがゴールだったことを後悔している」

試験に受かるまで9年間

奥村武博

豊作と呼ばれた97年の阪神ドラフトは奥村氏以外にも井川慶、中谷仁、坪井智哉などが名を連ねる。 写真提供/日刊スポーツ

 日本の三大国家資格は、医師、弁護士、公認会計士と呼ばれている。医師国家試験を受けるためには医学部医学科6年制を卒業してなくてはならず、司法試験には法科大学院の課程修了などの受験資格制限がある。しかし公認会計士試験には受験資格制度がない。つまり性別、年齢、学歴に関係なく誰でも受けられるのだ。  それぞれの合格率を見ると、医師国家試験は90%以上と高いが、そもそも大学の医学部に入ること自体超難関であり、高偏差値の強者どもが5、6年生の丸2年間を試験対策のため猛勉強している結果でもある。司法試験は大体25%前後であり、公認会計士試験がおよそ10%強。医師国家試験、司法試験ともに高いハードルの受験資格の規定があるため単純比較はできないのだが、数字だけを見れば公認会計士試験が最も難関であると言えよう。  このような難関国家試験をクリアし公認会計士になったのが、元阪神投手の奥村武博(41歳)だ。元プロ野球選手として、史上初めての公認会計士である。 「試験に受かるまで9年かかりました。’04年の秋から受験勉強を始め、勉強開始から7年目に落ちたときはさすがに諦めようと思いました。それでも、妻の励ましや周りの人たちの協力によって、その2年後に合格することができました」  年数だけをとってみても小学校入学から中学校卒業までと同じで、途方もない期間だ。一口に9年間と言っても、ただ受験勉強だけに没頭していたのではなく食い扶持を稼ぐためには働かなくてはならず、必然と仕事と勉強の両立を余儀なくされる。その間幾度となく心が折れかけるが、不屈の闘志で勉強し続け合格を勝ち取ったのだ。

元プロ野球選手初の公認会計士は元虎戦士

 見事、元プロ野球選手として史上初の公認会計士となった奥村だったが、プロ野球選手としての人生は、まさに不運の連続だった。  ’79年、岐阜県多治見市で生まれた奥村は、野球好きの父親の影響で野球を始め、多治見市立南姫中学軟式野球部3年時に県大会3位となり注目を集める。地域の有力選手とともに土岐商業に進学し、1年生大会の決勝で県立岐阜商業を破って優勝するなど1年生秋より奥村の代を中心にチーム編成される。2年夏の準決勝で県岐商に敗退、3年夏の決勝も宿敵県岐商に8対5で負け、甲子園の道を断たれる。しかし、188センチの身長からキレのよい速球を投げ分ける奥村をプロのスカウトは放っておかず、’97年のドラフトで阪神から6位で指名される。 「この年の1位は中谷仁(現智弁和歌山監督)で、2位に井川慶。そして私の3人が高校生ということもあって仲がよかったんです。甲子園に出ていた中谷は大阪の地理に詳しかったため、入団会見後に井川と私を連れて大阪の街を案内してくれました。田舎から出てきた私にとってきらびやかな街でしたね」  幼き頃からプロ野球選手になるのが夢だった奥村にとって、阪神時代は怪我との戦いだった。1年目に右肘の軟骨除去の手術、2年目はリハビリ、3年目に左脇腹肋骨を痛め、4年目は右肩痛、その年のオフに自由契約。一軍に一度も上がることなく終わった。
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わずか4年で……
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1968年生まれ。岐阜県出身。琉球大学卒。出版社勤務を経て2009年8月より沖縄在住。最新刊は『92歳、広岡達朗の正体』。著書に『確執と信念 スジを通した男たち』(扶桑社)、『第二の人生で勝ち組になる 前職:プロ野球選手』(KADOKAWA)、『まかちょーけ 興南 甲子園優勝春夏連覇のその後』、『偏差値70の甲子園 ―僕たちは文武両道で東大を目指す―』、映画化にもなった『沖縄を変えた男 栽弘義 ―高校野球に捧げた生涯』、『偏差値70からの甲子園 ―僕たちは野球も学業も頂点を目指す―』、(ともに集英社文庫)、『善と悪 江夏豊ラストメッセージ』、『最後の黄金世代 遠藤保仁』、『史上最速の甲子園 創志学園野球部の奇跡』『沖縄のおさんぽ』(ともにKADOKAWA)、『マウンドに散った天才投手』(講談社+α文庫)、『永遠の一球 ―甲子園優勝投手のその後―』(河出書房新社)などがある。

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