更新日:2021年06月28日 14:11
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東京都・大規模接種センターでのワクチン接種が「感動の30分」だった理由

「ワクチンを打たない自由」をどう考えるべきか?

 さて、ワクチンの接種が加速するなかで、最近しばしば報道などで取り上げられるのが「ワクチンを打たない自由」という言説です。なるほど、累計の陽性者数が約78万人ということで、人口の1%にも満たない状況ですから、まだワクチンを打たなくてもいいだろう、様子見でもいいだろう、そもそも必要性を感じない、という意見は理解できます。  しかし、このコロナ禍の1年間は「誰かの自由」を制限してきた1年間でした。飲食店やイベント業、観光業といった人たちが感染を拡大させる「悪」とみなされ、営業を制限されてきました。  外食すること自体やお酒を飲むこと自体、あるいは旅行すること自体で感染が拡大するわけではなく、そのなかで起きる「会話」や「会食」あるいは「交流」が真に感染拡大の機会であるにもかかわらず、「元から断たなきゃダメ」とばかりに彼らの自由は制限されました。今もなお、その自由は制限されつづけています。  誰かの自由を制限するなかで、「コロナも怖い」「でもワクチンも怖い」「私は一切リスクを負いたくない」「誰かが魔法のように解決してほしい、私の自由は保ったうえで」とはなかなか言えません。飲食・イベント・観光業などの自由が制限されたのと同様に、「ワクチンを打たない自由」もまた制限されるだろうと筆者は思います。  大規模接種、職域接種、自治体での接種、自分が行ける機会を最大限活用して、速やかに接種を進めることだけが、安心安全のために奪われてきた「誰かの自由」に報いる方法だろうと思います。「打たない自由」が制限されないのなら、飲食・イベント・観光業などもまた制限なく「自由に」やらせるべきだろうと。互いの自由を尊重するべきだろうと。そう思います。

「大切な人の命を守る」ことに一歩前進

 ワクチンが100%効くわけではなくても、すでに接種を進めている国の状況を見れば、劇的に効果があるようではあります。接種が進むことで発症者が減り、医療への負担が軽減され、安心感が世間に広がって、奪われてきた誰かの自由が戻ってくる。  今まさに苦境のなかにある人たちを思うと、体質的に打てない、接種するほうがリスクが大きいという人を除いた「打っても打たなくてもどっちでもいい人」「ただ何となく打ちたくないだけの人」は出来る限り速やかに接種を進めることが、今まさに困っている人のため、大切な人のため、そして自分自身のために必要だろうと筆者は思います。  その一助として、筆者もただ機会を待っているだけでなく、自分から率先してつかまえにいったということでもあります。何をやろうとしても「リスクがある」「不要不急」「中止すべき」と制止される世の中から脱するための1票を投じる、そういう気持ちで。  心配される向きが多いだろう副反応も、1回目の接種に関しては特になく、当日から翌日にかけて接種したほうの腕に筋肉痛のような痛みが出た程度でしたし、それも翌々日にはスッキリと消えました。まだ1回接種しただけの段階ではありますが、「大切な人の命を守る」ことに一歩前進したという喜びもあります。  自分から機会を求めに行ったことで、感動的な大規模接種センターでのオペレーションも体験できましたし、ハッキリ言っていいこと尽くめでした。ただ迷っているだけなら様子見などせず、早いうちに打っちゃってはいかがでしょうか。ワクチンに一番くわしいだろう日本中のお医者さんたちが自ら率先して接種していますし、コロナとワクチンでどっちが危険かと言ったら普通にコロナだと思いますしね!
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