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妻の「私は家政婦じゃない」という訴えを理解できない夫たち

では「お金を稼ぐこと」の意味とは?

 転じて、お金を稼ぐという行為にそのような「金銭とは異なる価値」はあるのでしょうか。僕は、無いと考えます。ただ稼いでくるだけでは、それは外部からお金を獲得してきた「だけ」だからです。  ではどんな時に「金銭とは異なる価値」が生じるのでしょう。それは前段の例と同様「このあなた」へと向かう固有な使い方がなされているときです。  お金を稼いできた人が、その使い方を「おれが稼いできたのだから俺が決める」のであれば、そこに「金銭とは異なる価値」はありません。 「金銭とは異なる価値」は、金銭では買えません。よって、もしも自分は「金銭とは異なる価値」を受け取っておきながら、自分は金銭を提供しているだけなのだとしたら、それはもらいすぎなのです。 「金銭とは異なる価値」は、交換することによってしか持続しません。よって、もらいすぎな状態はいつか必ず持続不可能になります。それは見えづらい搾取なのです。  僕は「夫はATM」と「妻は家政婦」という考え方は表裏一体のものだと考えます。それにはどちらも「この私」と「このあなた」という視点が完全に欠落しているからです。  それはまさに「労働の交換以上のことが何も無い関係」です。  

ご飯を作ってもらうことは「当然」ではない

 よく「自分は家政婦じゃない」「飯炊女じゃない」とパートナーから言われる加害者がいます。それは、まさに上記の様な理由なのです。  相手が喜ぶと思って作ったご飯や、家庭のさまざまな「金銭とは異なる価値」を当然のものと消費された時、人は「自分でなくても良いではないか」と思うのです。  それは交換が行われていないからです。そこには依頼と感謝がないからです。依頼と感謝がないとき、そこで生じるのは忖度の要求です。  つまり依頼もせず感謝もしないが、相手が自分を満たさないことは不当であり怠慢であり間違っていると考えるのです。  「このくらいやって当然だろう」「なぜやっていないんだ」「言わなくてもわかるだろう」「このくらいもできないのか」といったように。
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その関係に、労働や金銭とは異なる価値はあるのか
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DV・モラハラなど、人を傷つけておきながら自分は悪くないと考える「悪意のない加害者」の変容を目指すコミュニティ「GADHA」代表。自身もDV・モラハラ加害を行い、妻と離婚の危機を迎えた経験を持つ。加害者としての自覚を持ってカウンセリングを受け、自身もさまざまな関連知識を学習し、妻との気遣いあえる関係を再構築した。現在はそこで得られた知識を加害者変容理論としてまとめ、多くの加害者に届け、被害者が減ることを目指し活動中。大切な人を大切にする方法は学べる、人は変われると信じています。賛同下さる方は、ぜひGADHAの当事者会やプログラムにご参加ください。ツイッター:えいなか

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