更新日:2022年01月19日 14:44
エンタメ

武田真治、調子に乗っていた“CMキング”時代と『めちゃイケ』への深い感謝

全部が中途半端だった初期の芸能活動

武田真治3

撮影/前 康輔

──そして、療養期間中に始められたのが「筋トレ」、そして今回の本で紹介されている「メモ書き」を部屋の壁一面に貼り付けることだった。 武田:はい。当時“芸能界の大海原”まで来てしまったような感覚があったんです。もう後がないというか、自力で泳げるようにならなきゃ、このままでは波にのまれて海の底に沈んでいってしまうというか。  そこで「自分はちゃんと苦労しなければ」「一度しっかり遠回りをしてでも、何かを形にする経験を積もう」と心に決めて始めたのが、筋トレでした。自分の努力や汗を、ちゃんと身体に刻み込もうと思ったんです。そして、その過程で自分の考えたこと、感じたことを書き出していくことも始めました。 ──自分を戒めたり、鼓舞したりするための言葉を忘れないようにしよう、心に刻み込もうという感覚でしょうか。 武田:そうですね。そうでもしないと、すぐに自分がブレてしまう気がして。僕の初期の芸能活動って、全部が中途半端だったと思う。サックスを持って上京してきたものの「自分は絶対ミュージシャンになる!」と覚悟を決めてきたわけでもなく、ドラマのチャンスが巡って来たときも「役者として生きていくのだ!」と強い決意を抱いたわけでもなく、結局は与えられた仕事をこなしていただけというか。  それで調子に乗って、人の話も聞かなくなり、果ては心身のバランスを崩して仕事を休むことになってしまった。

「夢」も叶ってしまえば「仕事」になる

──ボロボロになって立ち止まってみたら「結局、自分は何者にもなっていなかった」という事実に気づいてしまった、と。 武田:はい。自分としては「燃え尽き症候群」みたいな捉え方がいちばんしっくりくるかなと思っています。上京する際、せいぜい23~24歳あたりまでの夢しか描いていなかったんですよ。「こういう形でデビューして、こういう演技をして、こういう作品に出て……」なんてことをフワフワと夢想し、幸運にもそれらのほとんどがスッと叶ってしまった。  ただ、そこから先の人生設計がまったく描けていなかった。「あれ? これからどうすればいいんだろう」と。それで、急に力が入らなくなるというか、燃え尽きるような感覚があった。  要するに、自分の中に確たる覚悟がなかったんだと思います。僕はラッキーなことに“夢を叶える若者”の代表には一時期なれていたかもしれません。ただ、そこから地に足を付けて、現実的な生業として継続していく覚悟がなかった。 「夢」も叶ってしまえば「仕事」なんですよ。いまにして思えば、そうしたことをきちんと消化できていなかったから、バランスを崩したのでしょうね。 【次回記事】⇒武田真治が明かす「『筋肉体操』出演オファーに当初、戸惑っていた理由」 武田真治(タケダ・シンジ) 1972 年、北海道生まれ。俳優、ミュージシャン。89年、第2回ジュノン・スーパーボーイ・コンテストでグランプリを獲得。翌年、テレビドラマで俳優デビュー。92 年、ドラマ『NIGHT HEAD』で注目を浴び、『七人のおたく』で映画に初出演。95年には蜷川幸雄演出の舞台『身毒丸』で主演を務める。99年公開の映画『御法度』では日本アカデミー賞優秀助演男優賞とブルーリボン賞最優秀助演男優賞を受賞。演劇やミュージカルでも活躍する一方、近年は『みんなで筋肉体操』(NHK)などで鍛え抜かれた肉体にも注目が集まる。また、サックスプレイヤーとしてさまざまなミュージシャンとも共演。著書に『優雅な肉体が最高の復讐である。』(幻冬舎)がある <取材・文/漆原直行>
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上には上がいる。中には自分しかいない。

ふがいない自分を支えてくれたのは、「言葉」と「筋トレ」だった。

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