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人のいなくなった家に野生動物が…原発事故から11年でも故郷に帰れない「風下の村の人びと」

11年間撮り続けてきた「風下の村」

11年後の今も住民の立ち入りを拒んでいる、津島地区の帰還困難区域ゲート

11年後の今も住民の立ち入りを拒んでいる、津島地区の帰還困難区域ゲート

 東日本大震災・福島原発事故から11年がたった。多くの人から当時の記憶が薄れつつある現在、福島県には住民がまだ1人も帰れていない村がある。阿武隈山脈の東側、福島県双葉郡浪江町の津島地区(旧・双葉郡津島村)だ。
森住卓さんが震災直後から撮り続けた、『浪江町津島──風下の村の人びと』(新日本出版社)

森住卓さんが震災直後から撮り続けた、『浪江町津島──風下の村の人びと』(新日本出版社)

 震災直後から警戒区域内に入り、この津島地区を撮り続けている写真家、森住卓さんはこう語る。森住さんは昨年10月、写真集『浪江町津島──風下の村の人びと』(新日本出版社)を上梓した。 「ここにはお米をつくり、牛を飼い、山から木を切り、阿武隈の花崗岩を掘って石材業を営む人など、およそ1400人が住んでいました。住民たちは隣近所助け合い、とても仲良く暮らしていました。春には山菜採り、夏には請戸川でヤマメやイワナを釣って、秋にはキノコが採れた。自然の恵みを受けてともに暮らしていたんです」(森住さん)

帰還困難区域に指定され、立ち入り禁止に

住民がいなくなっても毎年咲いていた、津島地区のしだれ桜

住民がいなくなっても毎年咲いていた、津島地区のしだれ桜。「おれは写真を撮ることくらいしかできないんだ。わかる? この悔しさ……」と地元住民の馬場績さんは言った

 しかし2011年3月11日を境に、その豊かな環境は一変した。福島第一原発から北西の風に乗って運ばれた放射性物質は阿武隈山中の村々に降り注いだ。
津島地区の田んぼ跡。ここがかつて水田だったことを知る人はいない。今は10メートルを超える柳の木が生い茂っている

津島地区の田んぼ跡。ここがかつて水田だったことを知る人はいない。今は10メートルを超える柳の木が生い茂っている

「村の人々によると、あの日は雪が降りとても寒い日だったそうです。山の向こうの海の方からドーンという大きな音が聞こえてきた。しばらくして、焦げ臭い臭いや口の中に鉄の味が広がったという。人々は『なんだかおかしいな』と思ったが、山は静かでした。村には津波の被災者が、浜の方から着の身着のまま避難してきました。津島の人たちはみんなで協力して、炊き出しや寝泊まりするところを提供していたそうです。  しばらくして、白い防護服を着た人が来て『早く逃げてください』と叫んだという。それから、浜通り(太平洋沿岸地域)からやっと避難してきた人も村の人も、蜘蛛の子を散らすようにいなくなってしまいました。  住民は放射能で高濃度に汚染したことを知らされませんでした。町役場が避難を決定したのは、原発が爆発した4日後のことでした。その後、津島地区は帰還困難区域に指定されました。村の入口にはゲートが設けられ、立ち入りができなくなったのです」(森住さん)
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人のいなくなった村に、野生動物たちがやってきた
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浪江町津島──風下の村の人びと

原発事故から11年たっても故郷に帰れない 国と東電を相手に裁判を闘う住民たち

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