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天才打者・田尾安志が今明かす二度のトレードの真相「僕は中日を出てよかったと思っている」

後輩の年俸アップを社長の自宅へ出向き直談判

「契約交渉のときでも悪いことしか言わないんですよね。給料を抑えることが仕事なのかもしれないですけど、人対人ですから。僕は肩書きだけで人と付き合わないのがポリシーで、金持ちだから良いとか、金を稼げないからダメだなんて思わない。その人の良さは自分で感じるもの。このときの代表は『ダメだな~』と率直に思いました。周囲から『あんまり言うと出されるぞ』と忠告されましたが、チームのためにやっていることを悪く評価されてしまうのならしょうがない。そう思って選手会長をやっていました。結局、出されてしまいましたけどね(笑)」  田尾は選手会長として、老朽化した球場ロッカーの修繕、選手専用駐車場の設営など、選手にとってより良い環境の整備、そしてモチベーションを上げるための待遇の改善をフロントに訴えた。決して強気にガンガン交渉していたわけではなく、選手たちの要望を選手会長としてフロントに上げただけ。穏やかに振る舞って妥協点を探りながら交渉していても、フロントからすれば選手の分際で交渉すること自体がすでに生意気な態度と見なされる時代だった。  ただ、選手たちの要望のなかで唯一専用駐車場の設営だけは強く交渉した。選手たちが一般の観客たちと同じ駐車場を使っていたため、行き帰りにファンに囲まれたり車にイタズラされたりと防犯上においても危険だと判断したからだ。 「牛島が契約更改で思ったほど給料が上がらず、やる気を失っていたのでこりゃいかんと思って、当時の堀田(一郎)社長の自宅まで行って『牛島の給料をもう少し上げてくれないでしょうか』と頼んだこともありました」  いくら可愛い後輩のためとはいえ、わざわざ社長の家まで行って後輩の年俸アップを直談判をするプロ野球選手など聞いたことがない。しかし、田尾にとっては特別なことではなく、モチベーションが下がっている牛島の姿を見て気が気じゃなくなり迷わず行動に出たまでだ。

「僕は中日を出てよかったと思っている」

 田尾のトレード報道が流れると同時に、球団事務所には“トレード反対”の電話が殺到し回線がパンクしたという。翌日には中日新聞の不買運動にまで発展し、あらためて田尾人気の凄まじさを感じさせた。  この世紀の大トレードは、明らかに中日側の損だと言われた。そして、このトレードで唯一株を上げたのは田尾自身だった。選手会長として遠慮なくフロントと遣り合い、メディアに露出すれば歯に衣着せぬ痛快な発言をしまくっていた田尾が中日を去る悲しみこそ語れど、球団への恨み節は一切口にしなかった。 「僕があのまま中日にいたら選手としてもっと良い成績を残せただろうけど、人間としてどうだったのかなと。ずっと中日一筋の立浪(和義、現中日監督)や山本昌は知らず知らず天狗になっていた部分がないとは言い切れない。それは自分では気が付けなくて、周りが陰口を叩くものだから。僕もずっと名古屋にいたら自分では気が付かないところで天狗になっていた可能性がある。だから、僕は中日を出てよかったと思っている」  長年愛用していたロッカーを整理し、大きな荷物を抱えてナゴヤ球場を去るときも忸怩たる思いを表に出さず、最後の最後までトレードマークの笑顔を忘れずに“中日・田尾”として振る舞い去っていった。この日を境に、田尾は二度と中日のユニフォームに袖を通さぬまま今日に至る―。
1968年生まれ。岐阜県出身。琉球大学卒。出版社勤務を経て2009年8月より沖縄在住。最新刊は『92歳、広岡達朗の正体』。著書に『確執と信念 スジを通した男たち』(扶桑社)、『第二の人生で勝ち組になる 前職:プロ野球選手』(KADOKAWA)、『まかちょーけ 興南 甲子園優勝春夏連覇のその後』、『偏差値70の甲子園 ―僕たちは文武両道で東大を目指す―』、映画化にもなった『沖縄を変えた男 栽弘義 ―高校野球に捧げた生涯』、『偏差値70からの甲子園 ―僕たちは野球も学業も頂点を目指す―』、(ともに集英社文庫)、『善と悪 江夏豊ラストメッセージ』、『最後の黄金世代 遠藤保仁』、『史上最速の甲子園 創志学園野球部の奇跡』『沖縄のおさんぽ』(ともにKADOKAWA)、『マウンドに散った天才投手』(講談社+α文庫)、『永遠の一球 ―甲子園優勝投手のその後―』(河出書房新社)などがある。

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嫌われた“球界の最長老”が遺したかったものとは――。


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昭和のプロ野球界を彩った男たちの“信念”と“生き様”を追った渾身の1冊

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