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世界一のバーレスクダンサー・経営者が目指す「歌舞伎町の人間交差点」

自分を売り出すためのモデルや芸能活動はやらなかった

RITA GOLDIE この決断が功を奏し、初出演したイベントをきっかけに毎回新たなオファーをもらうようになっていく。というのも、当時はバーレスクダンサーの数が少なく、イベントを盛り上げる“華”としての需要が相応にあったからだ。  リタさんは「駆け出しの頃は誰かが現場を与えてくれるものではなかったため、オファーをいただいたら出演するようにしていた」と語る。 「バーレスクダンサーとして活動を始めて1年くらいは、ギャラ(報酬)はあまり意識せず、とにかく舞台に立ってショーを見せることを重視していました。基本的にはオーガナイザーからいただく出演条件に合わせていましたね。現場によってギャラをもらえる場合もあれば、そうじゃないときもありました。ただ、ステージを観たお客様から“おひねり”をもらう機会は多かったですね。  とにかく場数を踏んで実績を作りたかったので、報酬面はあまり気にしていませんでした。むしろ、昔のバンド時代はチケットノルマがある世界だったので、ノルマがないのはすごく感動したのを覚えています(笑)」  先述した映画『バーレスク』はもとより、2011年にはショー・クラブ「バーレスク東京」が六本木にオープン。  奇しくもリタさんの予想通り、バーレスクが広く世の中に知れ渡るようになる。  こうしたなか、ショーに出ることを繰り返し、地道な努力の積み重ねを怠らなかったリタさんは、一人前のバーレスクダンサーとしてさらに階段を駆け登っていく。 「バーレスクダンサーの傍ら、銀座のフェティッシュバーや北新地の高級クラブでも働いていましたが、自分を売り出すためのモデルや芸能活動をやろうとは思っていませんでした。バーレスクの魅力を伝えるにはどうすればいいかを常に念頭に置きながら、ショーのコンセプトや衣装、立ち振る舞いなどを追及してきたんです」

「365日毎日イベントに追われる」ような店舗経営の難しさ

 バーレスクダンサーを続けていくうちに、リタさんは「イベントで知り合ったファンと、最終的に集まれる場を作りたい」と考えるようになったそうだ。  そこで、2014年には志を共にする仲間と共に高田馬場に多目的イベントスペース「高田馬場AFTER PARTY」を開業。  バーレスクダンサー兼経営者のひとりとして、場所の切り盛りをするように。  バーレスクダンスやベリーダンス、マジック、ボディペイントなど、一芸に秀でたアーティストが出演し、毎夜イベントを盛り上げていたという。 「店舗経営の難しいところは、言わずもがな集客面です。これまで出演していたパーティーやイベントと異なり、言ってしまえば“365日毎日イベント”があるような大変さゆえ、初めの頃は会う人会う人に声をかけ、連絡先を交換して、『良かったらショーを観に来てください』とお誘いしていました。  もう本当に腱鞘炎になるくらいメッセージを送り続けていましたね……。それくらい必死になりながら、ほとんど広告費もかけずに半ば手弁当で活動を続け、店舗に足を運んでくださるお客様を少しずつ増やしていったんです」
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ダンスは趣味ではなく“家族を養う手段”そのもの
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1986年生まれ。立教大卒。ビジネス、旅行、イベント、カルチャーなど興味関心の湧く分野を中心に執筆活動を行う。社会のA面B面、メジャーからアンダーまで足を運び、現場で知ることを大切にしている

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