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<門田博光さん追悼>“不惑の大砲”は晩年もフルスイングを貫いた

門田を襲った病魔

門田博光

『確執と信念 スジを通した男たち』(扶桑社刊)より

 取材を始める前に、申し訳なさそうな感じで門田から声をかけられる。 「右耳が聞こえないので、申し訳ないですが大きな声でお願いできますか?」  ‘03年に小脳梗塞で倒れ、’05年にも再発してしまったせいで右耳が難聴になってしまったのだ。申し訳ない思いはこっちなのに、門田が精一杯気を遣ってくれているのが痛いほどわかった。  取材を受けた時点でこちらの意図を当然理解していただろう。人間言いたくないことのひとつやふたつは必ずあるものだ。その部分をどう攻め落としていくかがノンフィクション取材の攻防でもある。『確執と信念』という表題のとおり、引退後も噂され続けた野村克也との確執、そして門田を孤高の存在たらしめた信念について聞き出したかった。時折鋭い目で取材陣の様子を探りながらも丁寧に語り、まだ世に出ていない野村克也との確執について吐露してくれた。  3時間強に及ぶ取材が終わった。 「今日は、初めて話すことが三割はあったんじゃないですか」 取材前とは打って変わり張りのある声で話す門田の顔色は、溜まっていた澱を吐き出したかのように血色の良い赤みがさしていた。はぐらかすことをせず3時間以上も真摯に語り続けてくれたその姿勢は、現役時代の代名詞だったフルスイングそのものだった。 「もう大丈夫ですね。それでは、失礼します。ありがとうございました」  はっきりと丁寧に挨拶をして、門田はホテルを後にしていった。その後ろ姿が、門田を見た最後だった。

門田からの電話

 拙著において門田が一番最初の取材対象者だったこともあって、いろいろと考えさせられた。体調がかなり悪い中で取材を受けてくれた意味は何だったのか、僕らに伝えたいことは何だったのか……。言い知れぬ思いを馳せながら、門田が誠心誠意話してくれた内容を原稿にした。  忖度は一切なしに、門田との真剣勝負だと思って筆を走らせ、原稿のチェックをお願いした。当然、懸念点はいくつかあった。門田の変人ぶり、そして現在の孤独を辛辣に表現した部分もあった。そうした部分には修正が入るだろうなと覚悟していた。だが、意外にも修正は1箇所もなかった。いつもなら「やったー」と呑気に思ってやり過ごすものだが、このときばかりは違った。何かを託された思いを感じて、みぞおちあたりにズシリと重いものを感じる。  取材のおよそ1年後、昨年4月にようやく本が完成した。取材対象者全員に完成した本と一緒にお礼の手紙を送付した。すると、担当編集者のもとに真っ先に門田からお礼の電話があったことを伝えられる。 「手紙をいただいた松永さんによろしくお伝えください。ありがとう」  あの門田博光がわざわざ電話をかけ、自分のことを話してくれただけで嬉しかった。門田から伝えられた言葉は、ありふれたお礼の言葉かもしれないが、自分にとっては宝物のような響きに聞こえた。門田が病魔に蝕まれながらも我々と対峙し伝えたかったことを、余すことなく世に伝えられるだろうか――。そう葛藤しながら門田と向き合った日々が報われた気がした。  律儀な行動にあらためて門田博光という人間を窺い知れた気がする。たった数時間ではあったが、取材中の優しく振りまく朗らかな笑顔と、話の核心に迫る瞬間の眼光、そして何より球史に刻んだ門田の記録と生き様を一生忘れない。
1968年生まれ。岐阜県出身。琉球大学卒。出版社勤務を経て2009年8月より沖縄在住。最新刊は『92歳、広岡達朗の正体』。著書に『確執と信念 スジを通した男たち』(扶桑社)、『第二の人生で勝ち組になる 前職:プロ野球選手』(KADOKAWA)、『まかちょーけ 興南 甲子園優勝春夏連覇のその後』、『偏差値70の甲子園 ―僕たちは文武両道で東大を目指す―』、映画化にもなった『沖縄を変えた男 栽弘義 ―高校野球に捧げた生涯』、『偏差値70からの甲子園 ―僕たちは野球も学業も頂点を目指す―』、(ともに集英社文庫)、『善と悪 江夏豊ラストメッセージ』、『最後の黄金世代 遠藤保仁』、『史上最速の甲子園 創志学園野球部の奇跡』『沖縄のおさんぽ』(ともにKADOKAWA)、『マウンドに散った天才投手』(講談社+α文庫)、『永遠の一球 ―甲子園優勝投手のその後―』(河出書房新社)などがある。

92歳、広岡達朗の正体92歳、広岡達朗の正体

嫌われた“球界の最長老”が遺したかったものとは――。


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昭和のプロ野球界を彩った男たちの“信念”と“生き様”を追った渾身の1冊

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