更新日:2024年07月30日 14:36
仕事

“もう一人のオオタニサン”は「弱小野球部から世界へ」。数奇なキャリアを追う

徐々に愛されるマスコットキャラのような存在に

大谷尚輝

13年イタリア、ネットゥーノでバットボーイを務める大谷さん【左端】(本人提供)

チームの居候となった大谷さんは、練習を手伝うほか、試合があればバットを運ぶボーイを務め、遠征先にも同行。すると、試合でバットを運ぶたびに、観客から「グランデ・ナオキ(偉大な尚輝)!」の大声援が送られるようになった。ネットゥーノでは、街と野球を愛するあまり、チームに居座る謎の日本人が噂になっており、気づけば大谷さんは人気者になっていた。 チームのFacebookでも「日本から来たオオタニだ! チームを手伝ってくれている」と紹介され、マスコットキャラのような存在になった大谷さん。当初は選手をやるつもりは全くなかったが、練習に参加しているうちに変化があった。 「最初はレベルが違いすぎて、内野ゴロしか打てなかったのですが、野球の勘が戻ってきたんですよね。しだいに打球を外野まで飛ばせるようになったし、あきらかに学生時代よりも技術も身体能力も向上していました」

オーストラリアで選手契約を結ぶ

実は大谷さんは100メートル11秒台の俊足の持ち主で、運動神経は抜群。ついに3部リーグ・セリエCのチームから選手のオファーがきた。 「ネットゥーノが『もはやオオタニはファミリー。手放したくない』とオファーを断ってしまったのですが、手ごたえは確信に変わりました」 半年間のネットゥーノ滞在を終え、日本に帰国。その後も自主練を続け、「もっと野球がしたい。やるなら、やっぱりアメリカだ」と野望が芽生えた。ここから選手としての転戦生活がスタートした。
大谷尚輝

15年アメリカ挑戦時の大谷さん【前列右端】(本人提供)

まず、14~15年はアメリカのサマーリーグや独立リーグのトライアウトに挑戦。打率は3割を超え、俊足を生かして盗塁も連発したが、契約することはできなかった。その後、10~3月にシーズンを迎える南半球のオーストラリアに渡り、アマチュアリーグのサーファーズ・パラダイスの門を叩いた。「アメリカのサマーリーグで打率3割4分だった」と話すと、簡単な入団テストを経て、選手契約を結ぶことができた。 「ついに契約できたので、うれしかったですね。現地の寿司工場やマッサージ店でアルバイトをしながら試合に出ていました」
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元メジャーリーガーから激励される
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1980年東京生まれ。毎日新聞「キャンパる」学生記者、化学工業日報記者などを経てフリーランス。通信社で俳優インタビューを担当するほか、ウェブメディア、週刊誌等に寄稿

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