更新日:2024年07月30日 14:36
仕事

“もう一人のオオタニサン”は「弱小野球部から世界へ」。数奇なキャリアを追う

元メジャーリーガーから激励される

15年から2年間プレーし、16~17年シーズンは打率5割を超える大活躍。さらにメジャーリーグで活躍した岡島秀樹さんとの出会いもあった。当時、岡島さんはシーズンオフになるとオーストラリアで自主練をしており、その練習に参加して教えを受けた。「30歳までが勝負だぞ。またアメリカで挑戦するなら、もしかしたらチームメイトになるかもな」と激励された。 その言葉に背中を押され、17年春から再びアメリカに挑戦し、各地の独立リーグを渡り歩いた。オファーもあったが、ビザの関係で選手契約には至らず。区切りと決めていた30歳を迎えてしまった。 「高いレベルで挑戦するのは、諦めがつきました。でも、やっぱり野球はやめたくなかった。野球の本当の面白さを教えてくれたのは、ヨーロッパのイタリアだった。最後は出発点のヨーロッパで野球人生を終えたかった」

ドイツでは「選手兼監督」に挑戦

イタリアやオランダ、チェコ、イギリスなど各国のチームとコンタクトを取っていると、意外な国から選手兼監督のオファーが届いた。全くと言ってよいほど野球人気がないドイツのダルムシュタット・ウィペッツからだった。月400ユーロ(当時は約5万円)の薄給ではあるが、選手兼監督というオファー。キッチン付きの住居まで用意してくれるという。 「ドイツはワーキングホリデーが活用でき、正規のビザがなくても長期滞在が可能。しかも、人生初の選手兼監督というポジションだし、貯金を切り崩せば、野球に専念できる」 選手は給料をもらうどころか、他の仕事をしながらクラブにお金を払ってプレーしている素人集団。だが、ガチの野球狂ばかり。チームには「本当はバスケじゃなくて、野球がやりたかったんだ」というアメリカ人の元NBA選手もいた。 「むちゃくちゃ楽しかったですね。30代後半のベテランもゴロゴロいたし、みんなとにかく試合に出たがっていた。打率とかデータを示して納得させましたが、誰を起用するか大変でした」
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新天地は「クロアチア」
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1980年東京生まれ。毎日新聞「キャンパる」学生記者、化学工業日報記者などを経てフリーランス。通信社で俳優インタビューを担当するほか、ウェブメディア、週刊誌等に寄稿

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