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帰ってきた「ベイスターズ史上最強の4番打者」。いまも古巣と日本を愛する理由とは

優勝を決めた試合でのエラーとオールスターMVP

1998年の遺伝子

1998年、優勝当時の集合写真

 1998年10月8日、横浜ベイスターズが38年ぶりにセ・リーグ優勝を決めたのも、ここ甲子園だった。 「あの試合、オレは先頭打者の打球を失策して失点に繋がった。そのままロースコアで試合が進んでいったので、優勝を決めにきた試合なのに、自分の失策で負けるのかよ……と、実は試合中、ずっと不安だったんだ」  二塁手・ローズの失策から逆転を許し、2-3の劣勢で進んだ試合をひっくり返したのは、8回表に進藤達哉がライト前に放った逆転打だった。 「オレのミスをシン(進藤)が救ってくれた。だから優勝した瞬間は、嬉しさより救われた気持ちが強かった。シン、ありがとう!ってね(苦笑)」  甲子園での思い出は尽きない。翌1999年のオールスター戦で、ベンチで見守る当時5歳の長男・コーディ君の眼前でホームランを放ち、オールスタータイ記録の6打点を挙げてMVPを獲得したのも、この球場だった。 「二塁打を打ってベンチを見たら、シゲ(谷繁)がコーディを肩車して喜んでくれて、涙が出そうになったんだ」  現役時代は寡黙だったローズが、聖地・甲子園に沢山の思い出があることを知ったので、思い切って提案してみた。 (どうせならファンと一緒に甲子園に行ってみないか?) 「ナイスアイデアだな!」

あの90年代ミリオン歌手もベイスターズファンだった

 そのアイデアは、旅行代理店が「ボビー・ローズと行く甲子園応援ツアー」として実現してくれた。催行人数には足らなかった赤字分は、ローズが補塡することで応援ツアーの実施も決まった。  共通の友人を通して知り合った仲間からも、嬉しい申し出が届いた。ベイスターズファンの歌手、相川七瀬さんだ。 「私の父に、孫と一緒に甲子園での野球観戦をプレゼントしたいの。私もツアーに参加していいかしら?」  彼女のような超一流アーティストが自分のツアーに参加してくれるなら、自分も万全の準備で迎えたいと、ローズは日本語の勉強をはじめた。 「オレは日本語を話すために来たのではない。打点を挙げてチームに貢献するために来たんだ」と、頑なに日本語を覚えようとしなかった、あのローズが、だ。
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美しいジェット風船。そしてレフトスタンドからはサプライズが
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1973年、神奈川県生まれ。日大芸術学部卒業後の1997年、横浜ベイスターズに入社、通訳・広報を担当。'02年・新庄剛志の通訳としてMLBサンフランシスコ・ジャイアンツ、'03年ニューヨーク・メッツと契約。その後は通訳、ライター、実業家と幅広く活動。WBCは4大会連続通訳を担当。今回のWBCもメディア通訳を担当した。著書に『大谷翔平 二刀流』(扶桑社)ほか

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