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「2006年に閉園したテーマパーク」全国有数の温泉地に表現した“アメリカへの憧れ”が、廃墟になってしまった理由

大南が“一人で作り上げた”「ウェスタン村」

そしてとうとう、「ファミリー牧場」は「ウェスタン村」へと名前を変え、テーマパークとしての営業がはじまる。徐々に根付きはじめた「ファミリー牧場」の名前を変更することには、従業員からの大きな反対があったという。しかし、大南は独断でこの名称変更を断行。インタビューでこう述べている。 「合議制なんてダメダメ。新しいことは、反対されるに決まってるからね」(『アミューズメント産業』23-2) 「テーマパーク」は一人の人間の「理想とする場所を作りたい」という想いが作らせることが多々あるが、まさに「ウェスタン村」は大南という男が一人で作り上げたテーマパークだったのである。 とはいえ、もちろんのことだが、大南一人の野望だけでテーマパークが成立するはずはない。その裏には、大南を支える人々や、施設に融資する銀行、あるいはそこに来る客がいた。この点でいえば、「ウェスタン村」へと名称が変わった1982年、鬼怒川は日本全国の景気高揚に伴って旅館の大型化や新規立地が進んでいる時期であった(国土交通省資料より)。折しも訪れた団体旅行ブームの波にも乗り、鬼怒川温泉全体が活況を呈するようになる。当然、その近隣にあったウェスタン村へも観光客が多く押し寄せたことは言うまでもない。だからこそ、大南の強気の経営が功を奏したともいえる。

開園の翌年に「テーマパーク元年」が訪れる

また、テーマパークという観点で見ても、この時代は大南にとって追い風だった。「ウェスタン村」誕生の1年後、1983年は「テーマパーク元年」と呼ばれ、東京ディズニーランドと長崎オランダ村(現・ハウステンボス)が開園した年である。全国的に見ても「テーマパーク」という施設がある種のブランド価値を持ち始めた時期でもあったのだ。 そんな大南にとっての追い風が最高潮に達したのが、1995年の「マウント・ラッシュモア」増設だ。大南はアメリカ旅行の際、本場の「マウント・ラッシュモア」を見て感動、その場でこれをウェスタン村に作ることを決めたという。総工費は25億円。日本経済はバブル真っ只中で、そのこともあって建設に踏み切れたのかもしれない。この決断はさまざまな雑誌でも取り上げられた。大南も、この施設がアメリカと日本の外交の架け橋の一つになることに期待をかけていたようだ。まさに、アメリカに憧れ、擬似的なアメリカを作った大南にとっては、一つのクライマックスが訪れた瞬間だっただろう。 しかし、その13年後、ウェスタン村は長期休園に入る。2006年のことだ。2007年には従業員を全員解雇したことが報道され、それからウェスタン村は廃墟として、鬼怒川にひっそりと佇んでいる。
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鬼怒川の活気が失われ、閉園を余儀なくされる
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ライター・作家。チェーンストアやテーマパークをテーマにした原稿を数多く執筆。一見平板に見える現代の都市空間について、独自の切り口で語る。「東洋経済オンライン」などで執筆中、文芸誌などにも多く寄稿をおこなう。著書に『ドンキにはなぜペンギンがいるのか』(集英社)『ブックオフから考える』(青弓社)
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