更新日:2024年03月08日 16:57
ライフ

「確かに愛してもいた」虐待を受け続けた女性作家が、“母を捨てる”まで

浸水した地域を見に行き「ワクワクした」思い出

 小学生時代の菅野氏の楽しい思い出として語られるエピソードには、作文のほかにもう一つ、特異な体験がある。 「宮崎県は台風の被害が比較的多いことで知られていますが、私たちが住んでいた当時もそうでした。台風が来ると家族4人で車に乗り、浸水した地域を見に行くのが常でした。母は必ず『たいへんやねぇ』と、字面上は沈痛さを演出するものの、私には浮足立っている彼女の気持ちが手に取るようにわかりました。正直、私もワクワクしていました。今にして思えば不謹慎な“儀式”です。けれども、心がバラバラだった私たち家族にとって、あれは必要なことだったのかもしれません」  ままならない日常を生きる者たちが、自然に翻弄されてもがく人間を垣間見て相対的な幸せを共有し合う歪な構図。眼前のすべてがなぎ倒されるような、絶望の一発。思う通りに生きられない辛さを紛らわせるのは、そんな一発だったのかもしれない。

底辺校で“普通”を経験して、取り戻したこと

 事実、年月が経つと家族は大きく軋んで崩壊の音をあげることになる。父親は出世を理由にこれ幸いに単身赴任、菅野氏自身は度重なるいじめによって引きこもりを余儀なくされた。 「地方ではそこそこの名門校と呼ばれる中学校に合格し、その当時までは母の“自慢の娘”でした。しかし、いわゆる上流階級の子女たちのいじめは苛烈で、複数のターゲットを順繰りに無視したり仲間に入れたりが続きました。学校においても、愛情を求めて受け入れられそうになっては拒絶されるということを繰り返した結果、私は精神に不調を訴えて引きこもるようになったのです。当時はすでに体格も母を凌ぐようになっていたので、これまでの思いをぶつけるように母に暴力を振るうようになっていました」  ある年までは母に怯え、従順だった菅野氏は、泣きながら当時の思いを吐露したという。 「私が何度『あのとき虐待したでしょう』と言っても、決して母は認めようとしませんでした。それはちょうど、私の幼少期に母が祖母にやっていたのと同じなんです。きょうだいの多かった母は、『私はずっと、一番どうでも良い扱いを受けて育ったんだ』と私に愚痴をこぼしていました。思えば幼いころの私は、母の不満の受け皿だったと思います。母が何度泣いて訴えても、やはり祖父母は『平等に育てたつもり』の一点張りでした」  名門中学校から一転、高校はいわゆる底辺校へ転落した。ただ、そこでは失われた自己肯定感を回復する出会いもあった。 「母からはずっと『性的なことは汚らわしいこと』だと教えられてきました。そのため、男性から好意を向けられると、反射的に『気持ち悪い』と思ってしまうんです。格好も、ある年代までは女性っぽさを放棄して過ごしていました。ところが高校では、いわゆるギャルの友達もできて、一緒に洋服を選ぶような、“普通”を経験したことで、女性性を少しずつ取り戻したのかもしれません
次のページ
生い立ちを書くことに抵抗があったが…
1
2
3
4
ライター、エッセイスト。可視化されにくいマイノリティに寄り添い、活字化することをライフワークとする。『潮』『サンデー毎日』『週刊金曜日』などでも執筆中。Twitter:@kuroshimaaki

記事一覧へ
母を捨てる 母を捨てる

毒母との38年の愛憎を描いた
壮絶ノンフィクション

おすすめ記事
ハッシュタグ