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【足で集めた被災地のニーズ】陸前高田市で始まる民間からの復興

陸前高田

地震発生から1週間強の段階で、支援物資の拠点となった陸前高田ドライビング・スクール

 5月末にエコノミスト・飯田泰之氏×評論家・荻上チキ氏が陸前高田市と大船渡市を訪れた模様を報告している、週刊SPA!の人気連載「週刊チキーーダ!」の番外編。

 最終回となる今回は、陸前高田市にある「高田自動車学校」社長の田村満氏のお話をお届けする。

 市内でも高台に位置するこの自動車学校は、震災発生直後から救援物資の拠点となり、以降、行政ができない支援を行ってきた。

 昨年9月には、自然エネルギーの活用、陸前高田の伝統産業を生かしての雇用・新産業の創出など、新たな街づくりを目指す新会社「なつかしい未来創造株式会社」を設立。

 陸前高田の復興を“民”の立場から牽引する田村社長が、あの日々から学ぶべきこと、あるべき支援、災害のない街づくりを語ってくれた。

高田自動車学校社長

高田自動車学校社長・田村満氏。民間の立場から新しい街づくりを提言する

 高田自動車学校が救援物資の拠点となったのは、そもそも田村社長が加盟している「中小企業家同友会」という企業家グループからの支援を受け入れたことから始まる。

 田村社長が所属する気仙支部は、比較的新しくできた支部ながら目立つ存在だったそうで、震災発生直後に「気仙支部が大変だ!」という情報が同友会内に発信され、全国の加盟メンバーからの支援物資が集められることに。

「僕は結果しか知りませんが、物資を集めたもののどう運ぶか? ということになったようです。とにかく沿岸部は全部やられていますからね。日本海側に集結させるしかないだろうと、まず新潟に荷物が集まり、そこから山形から宮城・福島へ。我々のほうには秋田経由で盛岡に入って、盛岡からこちらに届けられました。物資が到着したのが、3月19日ごろだったと思います。ただ、ここに荷物が届くという情報が僕のところに入ってきたのは、その2日前くらいでした。正直、『困るなあ』との思いもなくはありませんでした。でも、これは同友会のメンバーからの『地域に根ざした企業ならば、地域を助ける使命がある』というメッセージだと僕なりに解釈したんです」

 救援物資が入ってくるという情報を受けて、田村氏は、自社の社員、同友会所属企業の社員を集めて、近隣の全避難所――南は気仙沼の唐桑地区から北は釜石の近くまで、全200か所をしらみつぶしに当たらせた。物資が今、どれくらい届いていて、どれくらい足りないのか? を調べるためにだ。自動車学校なだけにガソリンはあった。が、当時、まだ道路は壊滅状態。現地に入っていたのは自衛隊だけ。社員たちは山を歩き、各避難所にニーズの把握にまわった。

「結局、40か所くらいだと思いますが、自衛隊からまったく支援物資が入ってないところがあったんです。避難所に指定されていない避難所もありましたから。なので、とにかく、物資が圧倒的に足りないところに手厚く届けようと。全国から届いた荷物の仕分けに1日かかりました。それをうちの社員たち、同友会のメンバーの社員たちで配送して……というのを、ずっと行っていったんです」

 自動車学校は震災から1か月後に再開。それと同時に、田村社長らは継続的に支援物資の配布を行っていく。当然、時の経過によって必要とされるものが変わる。当初は水や食料、電池など最低限のライフラインを支えるもの。これらは、毎日のことなので、比較的長く必要とされた。しかし、ある程度、民間の団体も入るようになり、途中でこれはもう十分となったのがおむつ。7月になり、避難所から仮設住宅へほぼ8割の人が入れるようになった頃には、ほぼ物資は足りるようになったという。

「ただ、5月1日にスクール内で朝市をやったんですが、そのとき、飛ぶように売れたのがお鍋だったんです。あとは、ヤカンやフライパン、包丁。避難所ではちゃんと調理をするということがなかったのが、仮設に入って、料理をするようになったんでしょうね。でも、仮設住宅には人数分のお茶碗やお皿は用意されていたようですが、調理器具はなかったみたいで。1個500円で販売したのですが、420個以上売れましたね」

【後編】に続く⇒http://nikkan-spa.jp/248451
ニーズより優先される“ルール”。ルールは何のためにあるのか?

構成/鈴木靖子 撮影/土方剛史




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