「頑張って」という言葉は無情だ――なべおさみが語った海の底の20数年【後編】
今、ある一冊の本が静かな話題となっている。本のタイトルは『やくざと芸能と 私の愛した日本人』。帯にある「知られざる昭和裏面史」の惹句のとおり、本では、白洲次郎の粋、VAN創業者・石津謙介のクールさ、下積み時代の野坂昭如のユーモアと無頼、水原弘に勝新太郎、石原裕次郎、美空ひばりら昭和の大スターたちの素の姿など、昭和の芸能界の裏面が綴られる。
同時に、安藤組大幹部・花形敬、“ボンノ”の通り名で知られた菅谷組組長・菅谷政雄、山口組六代目・司忍……といった昭和の大物やくざも登場。さらには、政商・小針暦二から始まる安倍晋太郎ら、政界とのかかわり(1983年の衆院選・北海道5区での中川昭一と鈴木宗男の骨肉の争いの裏側まで!)も描かれる。
この本を書いたのは、なべおさみ。なべおさみといえば、ある年齢以上の人にとっては『ルックルックこんにちは』の「ドキュメント女ののど自慢」の司会者、という印象が強いかもしれない。そして、多くの人にとっては、1991年に起きたいわゆる「明大裏口入学事件」で記憶は止っているだろう。この事件を機に、なべは芸能活動を自粛。華やかな表舞台からは姿を消していた。
なぜ、今、この本を出版したのか? この問いかけになべは、「ヒマだったからですよ」と静かに笑いつつ、芸能活動を自粛していた期間のこと、そしてこの本に託した思いを語った。
⇒【前編】『本を書いたのはヒマだったから』
――千日回峰行とは、比叡山の峰々をぬうように巡って礼拝する荒行で、7年をかけて通算1000日間をかけて行われる。上原行照大阿闍梨は、1994年に満行し、天正年間以来48人目の大行満大阿闍梨となった。なべは、1992年1月からの4か月間、朝4時半に起床し、2時間半、参道を竹箒ではき、その後、食事の支度に洗濯、薪割り、護摩木づくりなどの下働きに加え、1日何時間も、行者の後について、深夜、山歩きのトレーニングに従うといった生活を送った。
なべおさみ(以下、なべ):最初の3日間は寒くて眠れなかったね。二畳程度の板の間に寝泊まりしているのだけれど、窓は北側にあって、ガラス窓の隙間からヒューヒュー風が入り込んでくる。そのときわかったのは、布団は上にかけてもダメ。下を厚くすると寒くないんだよ。
そんな些細なことから、全部、これまでの人生の知恵を駆使して、考えて対処しました。寒い中、護摩木を作るのも寒くてたまらないのだけれど、休まず一生懸命やると木屑が出る。それをだるまストーブで焚けば暖かくなる。だるまストーブの煙突がつまったら、掃除道具はないけれど、沢に生えている若竹で灰を落とすこともできる。自給自足の生活の中で、自然と知恵を活かすことをしていったわけです。
だって、誰も何も教えてくれないんだもの。自分で考えるしかない。でもむしろね、言わない優しさっていうのがあることにも気づきました。
マスコミからは、山に入ったことも「反省のパフォーマンス」的なことも書かれていたんだけど、一般の信者さんも含めて、山で会う人、誰ひとり、何も事件のことは触れないし、「頑張ってね」とも言わないんです。
それだけでなく、読経の後、足がしびれて立ち上がれないでいてしびれを堪えていて、ふと気づくと傍らに足袋が置いてある。あるときはそれが作務衣だったり、下履のパンツであったり。どこの誰とも何も言わずにです。優しさって、こういうことかなって思いましたね。
つくづく思ったのが、「頑張って」って言葉は、ときに非情で無意味だってことだね。「頑張って」というのは、「あなたがあなたのことを頑張る」、つまり、「It’s not my business」=私には関係ないっていうのを明示していることにもなる。だから、「一緒に頑張ろう」とは言っても、「頑張って」は言うまいって決めました。御山での生活は、これまでの自分の傲慢さ、わが身の反省点を浮き彫りにする日々でした。
――このときの気付きは、このたび上梓した『やくざと芸能と』での筆致にも現れている。冒頭に説明したように、本には昭和の大スターや、大物と言われたやくざ、政治家の名前が数多く出てくる。しかし、この本は、決して暴露本ではないし、太鼓持ち本でもない。書かれた具体的なエピソードこそが、それぞれの人物がいかに器量人であったか語る。
なべ:本を読んで、こういう人とのかかわりって優しいなって思ってもらえたら、なによりうれしいですけどね。
ボクは本に登場する人たちから、本当にたくさんの恩恵を受けてきました。例えば、裕次郎さんは、ボクが食えないとき、「お前なんてどうでもいいけど、嫁さんがかわいそうだ」「好きなだけ遊んで食ってけ」って言って、3日間、ボクら夫婦をホテルに泊まらせてくれたこともありました。こんなのほんの一例。でもね、こうしたことを書いていくと、今のボクの筆力だと、自慢話になってしまう。
じゃあ、どうして、裕次郎さんはじめ、みんながボクにそうしてくれたのかというのを考えると、やっぱり、身を粉にして尽くしたからかなと思う。
「なべ、明日どうしてる?」って電話があれば、「空いてます」と即答。「頼まれてくれないか?」って言われたら、「はいっ!」って。
人との糸は何十年も前からつながっていて、積み重ねていくことで、その糸は広がり太くなる。だから今ようやく、ひょっとしたら、小さな手袋くらいは編める絆はできているのかなとは思いますね。一朝一夕ではダメですね。
――なべが比叡山を下りるとき、叡南覚照大阿闍から言われたのが、以下のような話。
「今、寄せてる波は強い。あんたが考えている以上にパージは続くで。せやけどな、強い波に寄せられたら、帰るときも強い波やわな。どれだけ辛抱できるかやな」
「宇宙の摂理はな、50と50。いいことも50、悪いことも50。これが陰陽やな。プラスマイナスや。なのに人は、100いうと100欲しがる。ちゃうねん。50は相手、50が自分。50で満足できないってことは、我欲が強いってことや。お前もいま、100責められてると思ってる。ちゃうねん。どんな責めでも50まで。応援してくれる50がきっと出てくる。それを縁(よすが)にすればええやん」
なべ:この本が発売されて、ある種の呪縛が解けるという天啓をいただいていました。来年、僕ら世代のためのお芝居作りがスタートして、全国公演のオファーもいただいています。それはまさに、ボクが願い続けていたこと。
天はひたむきがいちばん好きなんですよ。天は知恵を降らしてくれ、人を差し遣わしてくれる。気運というのはある。ちゃんと生きていると、ちゃんと収支は合いますよ。ボクはこれから死ぬまで、ボクなりの小さな船だけれど、順風満帆だと思う。これまで嵐にあって凪で、自分でこぎ続けて、ちょっと疲れちゃったときもあったけど、風は吹くんだ!と思うと、生きられたんですよ。さて、楽しいなあ。
【なべおさみ】
1939年、東京生まれ。本名は渡辺修三。
1958年、明治大学演劇科に入学。すぐに三木鶏郎門下となり、在学中からラジオ台本などを書く。その後、水原弘とともに渡辺プロダクションに入り、水原や勝新太郎の付き人を務め、水原の退社後はハナ肇の付き人となる。
1962年に明治大学卒業。1964年、日本テレビ系列『シャボン玉ホリデー』でデビュー。
1968年には山田洋次監督『吹けば飛ぶよな男だが』に主演。その後、数多くのテレビやラジオ、舞台で活躍するも、1974年に渡辺プロダクションを退社し、森繁久彌の付き人に。1978年から日本テレビ系列『ルックルックこんにちは』の「ドキュメント女ののど自慢」の司会を務める。
1991年、いわゆる明大裏口入学事件により、芸能活動を自粛。現在は舞台や講演活動を中心に活動。著書に『七転八倒少年記』『病室のシャボン玉ホリデー』などがある。
<構成/鈴木靖子>
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