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【荻上チキの短期集中連載】ルポ・遺体安置所が語りかけるもの vol.5「誓い」

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瀬戸公美子さん

瀬戸公美子さん

瀬戸さんは、とても情の厚い方だと思う。順一さんと話をしている間も、彼女は静かに、大粒の涙を流していた。 瀬戸さんの業務も、11月で終わる。だが、彼女の「復興活動」は、まだまだ終わらない。 「遺体安置所では、子ども亡くした親や、親を亡くした子どもをたくさん見ました。みんな大変だけど、ちゃっこい子どもが一番かわいそう。突然、父ちゃん母ちゃんがいなくなる、一番大切な存在が亡くなった。復興しても、家族は戻ってこないんです。 これまで8か月、いろんな人たちが来て、毛布だ、食べ物だって支援してもらいました。これからは、ここにいる人が、腹をくくって声を出すことが必要だと思っています。 親を亡くした子どもたちを、十数年ってスパンで支えていかなくちゃいけない。子どもたちが上を向くために必要な環境を、作っていかなくてはならない。少しの間来てボランティアしてパッと帰るんでない、10年っていうスパンで、ああでもねえ、こうでもねえって、その子たちとかかわってほしい。 難しい教育ではない。『私たちはあんたとこ、ちゃんと見守ってるんだよ、案じてるんだよ』って伝えていくことが、やっぱり大事だと思う。 でも、まずはとっかえひっかえ、全国から見に来てほしい。興味本位でいいから見に来てほしい。まずは来てくれたらいいちゃ、見てくれたらいいっちゃ。そのあと、支援するかしないかはあんたたちが決めてくれればいい。取材に来てもらったのも、まずはメディアを通じて、多くの人に見てほしかったから。私たちも、これから自分たちでもっと声を上げていくから、声が届いたら返してほしい。長い時間が必要ですからね」 瀬戸さんが遺体安置所の業務を通じて感じたことは、この災害で生まれたとてつもない悲しみを決して忘れないという強い「誓い」だ。だからこそ、メディアを通じて、他の人たちとも同じ「誓い」を抱いてほしい。それが、瀬戸さんが僕らを石巻に招いた理由だった。 このような悲しい思いを繰り返さずにすむ、災害に強く、不幸を生みにくい社会をつくっていきたい。遺体安置所の光景は、そうした「誓い」を、見る者に刻み込む。深く、強く。 ※11月15日発売 週刊SPA!本誌『週刊チキーーダ!」では今回の取材後の荻上と飯田の対談も掲載 【荻上チキ】 1981年生まれ。評論家。 メールマガジン『αシノドス』 編集長(http://synodos.jp/)。ニュース探求ラジオ『Dig』 にて水曜パーソナリティを務める(http://www.tbsradio.jp/dig/)。著書に『ウェブ炎上』『社会的な身体』『セックスメディア30年史』『検証 東日本大震災の流言・デマ』など、共著に『ダメ情報の見分けかた―メディアと幸福につきあうために』など、編著に『もうダマされないための「科学」講義』など。BLOG:http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/
検証 東日本大震災の流言・デマ

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