更新日:2022年12月10日 18:36
カーライフ

「戦艦大和並みのムダ使い」と揶揄された新東名は高速道路屋たちの夢だった

~不定期連載「あの日、あの道、そしていま」~

 昨年10月、一部区間で最高速度が110km/hに引き上げられた新東名高速道路。新東名の計画概要が決まったのは、1987年の四全総(第四次全国総合開発計画)においてであり、建設が始まったのは1993年。しかし当時、「第二東名」と呼ばれたその存在は、世間的にはほとんど知られていなかった。

新東名高速道路

 「第二東名」がマスコミにクローズアップされたのは、2001年から始まった道路公団民営化議論の過程においてだった。それは、「戦艦大和並みのムダ使い」という、国家的負の存在として、である。  確かに当時の日本道路公団には、コストダウンの概念がなく、後に明らかになったように官製談合も横行しており、建設による借金はふくらみ続け、このままでは第二の国鉄になると言われていた。つまり、悪しき赤字高速の象徴として、最大の大物である第二東名が血祭りにあげられたかっこうだった。  その頃私は、前年に『首都高はなぜ渋滞するのか!?』(講談社刊)なる本を書いたばかりで、次の課題として、全国の計画中の高速道路の必要性を検証しようと考えていた。そこで、真っ先に向かったのが、第二東名・第二名神の建設予定地だった。

当時の愛車シトロエン・エクザンティアブレークで第二東名・第二名神の建設予定地を巡りました

 2002年1月。現在の名神・草津JCTを振り出しに、新東名・御殿場JCT付近までを予定地沿いに走って現場を見た私は、ある意味愕然とした。「こんなにできていたのか!」と。第二名神はまだ山間部の土木工事程度だったが、第二東名はトンネルや橋梁を中心に、かなり工事が進んでいた。これを「ムダ」の一言で片づけ、建設を中止し廃墟としてしまうべきなのか?

新東名・天竜川橋梁(2002年1月撮影)

 東名・名神の交通量はすでに限界を超えていたし、代替路もなかった。実は当時から、太平洋ベルト地帯の人やモノの輸送密度は世界一だったのである。なぜならここには、100万都市が6つも並んでいる。世界の大都市は面に散らばっているが、日本は多くの大都市がこの線上にあるため、断面輸送量は世界一にならざるを得ない。そんなところを走る高速道路がたったの1本、しかも片側2車線などというのは、先進国として狂気に等しい。せめて片側3車線。できれば複線化したい。  それまで私は、東名・名神の全線片側3車線への拡幅の方が、コスト的に有利かもしれないという思いがあったが、現地を見たら、「これを捨てるのはあまりにももったいない」と、考えが変った。誰がなんと言おうと、第二東名・第二名神は完成させるべきだと確信したのである。  当時、そんなことを書けば、建設省の回し者扱いされかねなかったが、翌年刊行した『この高速はいらない。』(講談社刊)では、必要性順位第7位に挙げた。

現場を見て、「誰がなんと言おうと、第二東名・第二名神は完成させるべきだ」と確信した当時の筆者

 それにしても、本のタイトルが『この高速はいらない。』である。その事実が、当時の空気感を物語っている。私としては、『いる高速、いらない高速』にしたかったし、実際、当時建設中だった37路線のうち半数以上を建設続行が適当と判定している。しかし、それでは売れないと押し切られた。
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現場を見た約2年後…
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1962年東京生まれ。慶大法卒。編集者を経てフリーライター。『そのフェラーリください!!』をはじめとするお笑いフェラーリ文学のほか、『首都高速の謎』『高速道路の謎』などの著作で道路交通ジャーナリストとしても活動中

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