更新日:2021年01月29日 12:34
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「どうしたら死ねるだろうかと思いながら書いていた」喪失を描く作家・柳美里の言葉

柳美里さん 芥川賞作家として知られる柳美里さんの小説『JR上野駅公園口』が、アメリカで最も権威のある文学賞の一つ全米図書賞(翻訳文学部門)を受賞した。
JR上野駅公園口

河出書房新社

TOKYO UENO STATION

海外で出版された英訳版タイトル『TOKYO UENO STATION』

『JR上野駅公園口』が文芸誌に発表されたのは2012年。主題は「ホームレス」や「自殺」。コロナ禍の日本では、今まさに深刻さが増している問題だ。  東日本大震災の直後から被災地に通い、現在は移住した南相馬市で書店も営む柳さんの同作には、“日本人の多くが目を背けてきたもの”が描かれている。「喪失を描くのが小説なのではないか」と語る、柳美里さんの眼に映る景色とは。 柳美里 1968年生まれ。高校中退後「東京キッドブラザース」に入団。役者、演出助手を経て、86年演劇ユニット「青春五月党」を結成。93年『魚の祭』で岸田戯曲賞、97年『家族シネマ』で芥川賞を受賞。著書多数。 『JR上野駅公園口』 河出文庫  生者と死者が共存する土地・上野公園で彷徨う一人の男の魂。彼の生涯を通じて柳美里が日本の現在と未来を描く。英訳版はTIME誌の2020年必読書100選にも選出。

「どうしたら死ねるだろうか」と毎日考えていた時期にスマホで執筆

――『JR上野駅公園口』の物語では、五輪開催に向けた東京の街の“浄化”が描かれており、その物語は東日本大震災の被災地における“故郷の喪失”とも関連を見いだせるものでした。受賞するとわかったときはいかがでしたか? また、執筆当時のお話もお聞かせください。 柳 この本を一緒に作った担当編集の尾形さん(河出書房新社の編集者・尾形龍太郎氏)に最初に電話をしましたね。『JR上野駅公園口』を書いていた時期、私の精神状態はどん底で。うつ状態がひどく、抗うつ剤のSSRIと睡眠薬の量も増えていました。 私が発狂していたせいなのか、薬の副作用なのかはわからないんですけど、目の前を1メートル以上のシルバーアロワナが泳いでいったり、顔が焼けただれたキューピー人形が大量に現われたり、凄まじい幻覚にさいなまれていました。あと、視界全体が斜めになったりぐるぐる回転したりして、めまいと吐き気がひどかったので、トイレに行く時は壁に手をついたり四つん這いになったりしていましたね。 「どうやったら死ねるかな」ということばかりも考えていましたね。当時住んでいた鎌倉の家は2階建てだったので、「遠くに行く体力や気力はないけど、息子の縄跳びの紐を首に巻き付けて、2階のベランダの手摺にくくりつけて飛び降りれば、死ねるな」とか……。 『JR上野駅公園口』は、座った状態では書いてないんですよ。「1冊分の小説を書かなきゃ」と思ってしまったら到底仕上げられないんで、ツイッターの鍵アカに140字ずつ書いていきました。 ツイートが10個たまったら、新規メールにコピペして、音読しながら手をいれていくんです。ツイート10個で1400字、原稿用紙3枚半になるじゃないですか。少しずつ仕上げて、尾形さんにメールする。そうやって書き進めていったんですけど、掲載予定だった『文藝』(河出書房新社)の締切にはとても間に合いそうにない。『文藝』は季刊誌なので、1回逃すと掲載がかなり先になり、とにかく締切は守ろうと書いていた気持ちが挫けてしまう可能性が高い。 でも時間的に無理なものは無理ですから、深夜尾形さんに謝罪のファックスをしたら、すぐに尾形さんからファックスが返ってきたんです。「この小説は生まれたがっている。だから諦めないで書いてほしい。私は待ちます」と。尾形さんが、待つ、と言ってくれるなら、なんとしても間に合わせなければ、と、睡眠薬をのむのをやめてスマホを握りしめ、徹夜でツイートをしつづけました。 『JR上野駅公園口』では、主人公が冒頭から既に死んでいますよね。彼は社会の際(きわ)から押し出されてしまった人間でした。あのときの私も、生きることから落ちこぼれていたから、この小説を書けたのかもしれません。 柳美里さん――柳さんは『JR上野駅公園口』の以前から、山手線を舞台に自殺をテーマにした連作小説を書かれていましたよね。河出文庫より2月8日に刊行される『JR品川駅高輪口』、3月に刊行予定の『JR高田馬場駅戸山口』もそうですが、周囲を歩く人の声と、主人公の思考が混線したような文章が、自殺に至る人間の心理状態をリアルに表しているように感じました。 柳 自分に周囲の音が容赦なく侵入してくる状態ですよね。でも、それって都市ならではの現象なんだな、と田舎に引っ越してみてわかりました。 ――柳さんが現在お住まいの小高(福島県南相馬市)はすごく静かな場所ですよね。 柳 それは、静かですよ、震災前の3割弱しか帰還していませんからね。小高の隣は、東京電力福島第一原子力発電所のある双葉郡です。双葉郡も、除染を進めて徐々に避難指示を解除してはいるんですが、広大な帰還困難区域を抱えています。

集団就職した“金の卵”がホームレスになった

――『JR上野駅公園口』の物語は、上野公園のホームレスの方々を取材した経験と、東日本大震災後に南相馬市で聞いてきた話の2つが元になっているそうですね。 柳 JR上野駅公園口のホームレスの方々に東北出身者が多い……という話は以前から聞いていて、上野公園に通って、ホームレスの方々にお話を伺ったら、実際に東北出身者が多かったんですよ。集団就職で10代の時に常磐線や東北本線に乗って上京し、かつて「金の卵」と呼ばれた人達もいました。 その「金の卵」というのは、あくまでも「使う側(雇用する企業側)にとって金である」という意味ですよね。中卒の安い労働源であった彼らの中には、卵から孵ることなく、ひよこにもなれず、鶏になれず、卵のまま使い捨てられ、なかにはホームレスになった人もいるわけです。 彼らに、野宿する場所として上野公園を選んだ理由を尋ねると、「東京のなかでいちばん故郷に近い場所だから」「最初に東京に降り立った場所だから」と答えた人もいた。改札を通って電車に乗りさえすれば、懐かしい故郷に帰れる、と。でも、集団就職で上京したのは農家の次男、三男、四男といった人達なので、長男が跡を継いだ故郷には居場所がないし、自分の田畑もない。上京したことによって故郷や家族、親族との縁が切れてしまった。 もう一つは、東日本大震災ですね。私は2012年の2月から、南相馬市の臨時災害放送局で「ふたりとひとり」という番組を担当し、地元住民のお話を収録してきましたが、そこでも「若い頃に出稼ぎをしていた」という話を多く聞きました。「出稼ぎで、1964年の東京オリンピックの体育施設や宿泊施設や道路工事に従事した」という方も多かった。東京オリンピックの数年前に上京して、そこから四十年にも及ぶ長い出稼ぎ生活が始まり、六十歳までは盆と暮れにしか南相馬の自宅には帰れなかったそうです。子供たちには顔を忘れられて、「この人誰?」という目で見られ、親子の間に距離が出来てしまった、と……。 「ふたりとひとり」では、津波による被災体験、原発事故による故郷の毀損や喪失や家族の分断、高齢男性によるかつての出稼ぎの話を聴きつづけました。「原発が出来る前は、祖父や父や兄が東京に出稼ぎに行き、家には母と祖母しかいなかったが、二人とも農作業や内職で忙しかった。原発が出来て、男の家族たちが東京から帰ってきて、みんな原発で働くようになり、晩ごはんを家族揃って食べられるようになって、うれしかった」と語った女性もいました。 ――出稼ぎが必要なほど生活が苦しかった地域のなかでも、福島第一原発の周辺では、原発の誘致後に大きな産業と雇用が生まれるという、原発について単純には善悪の是非をつけ難い背景もあったそうですね。 柳 原発の誘致は、南相馬や双葉郡の住民の暮らしを大きく変えました。直接の雇用のみならず、スーパーやコンビニや飲食店なども原発関連の仕事に従事している人達が訪れることによって繁盛していたわけですからね。 私は南相馬市の工業高校で講義をしていましたが、震災前、優秀な生徒たちが目指す企業は、なんといっても東京電力と東北電力、その関連企業でした。震災後も、東京電力に入社して、最初の赴任地が柏崎刈羽(原子力発電所)だという子もいました。「電気は人の命を支えるものです。だから、僕は誇りを持って、電気を作る仕事に就きます」と。
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オリンピックとホームレス
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