政権復帰したタリバンは、20年前とは違うのか?
1998年当時のカブール。電気の供給は限られており、街中に地雷が埋まっていた
今年の終戦記念日(8月15日)、長らく続いた一つの戦いに終止符が打たれた。20年もの間アフガニスタンに駐留していた米軍が撤退したのに合わせて、親米路線のガニ政権が崩壊して反政府武装勢力「タリバン」が首都のカブールを制圧したのだ。
2001年9月11日の同時多発テロ事件を受け、同年10月にアメリカはアフガニスタンに侵攻、タリバン政権を追い出した。そして民主主義や女性の社会進出などの権利を認め、ここ20年の間、ガニ政権はその価値観に基づいた国作りを進めてきた。そして今回、再びタリバンが政権を掌握した。
西洋化が進んでいたアフガニスタン社会の中で、ここ20年間生きてきたアフガニスタン人たち、特に都会の住民は、焦り怖れおののいた末に行動を起こしたのだろう。
「タリバンが再び政権を担うと、20年以上前の不自由で恐ろしい世界に戻ってしまうはずだ。ならば逃げるしかない」と。
国外脱出のために離陸しようとするアメリカの輸送機にしがみついた人々が、地面に落下して7人が死亡、
「せめて赤ん坊だけでも」とアメリカ兵に自分の子どもを預けようとするアフガニスタン人の姿が報道されたことは記憶に新しい。
東部の都市ジャララバードではタリバン兵が抗議デモ隊に発砲し、少なくとも3人が死亡する事件が発生。カブールではドイツ人ジャーナリストの家族が殺害された。8月26日にはカブールの空港付近で発生した自爆テロで、米兵13人を含む計180人以上が死亡。それに対し米軍がさっそく報復……。情勢は緊迫の度を深めている。
その一方で、タリバンは8月15日に女性キャスターを起用して幹部へのインタビューを放送、8月17日にはタリバン初となる記者会見を開催して
「(米国協力者らへの)報復はしない」「教育や就労など女性の権利、報道の自由は、イスラム法の範囲で保障する」などと、“以前とは違うタリバン”を国民や国際社会にアピールしている。
日々届けられるアフガニスタンの情勢を見ていると、再び動乱が起こり、戦乱の地へ戻っていくかのような印象を受ける。実際のところ、この国はどうなっていくのだろうか。そもそも「タリバン」とはどんな人たちなのだろうか? 2005~2012年にアフガニスタンで支援活動を行った、日本国際ボランティアセンター(JVC)元スタッフの長谷部貴俊さんにお話を伺った。
2008年ごろ、村の地域保健員と打ち合わせをする長谷部さん(右端)。隣は現地スタッフのワハーブ医師
西牟田:タリバンがカブールを制圧した8月15日以降、現地はどうなっているのでしょうか?
長谷部:カブールの人たちは
「身の危険があるかもしれない」ということで、家の外に出ないようにしている。そういう人が多いようです。ジャララバードなどカブール以外の地方の人は、普段とそう変わりない生活をしているという話でした。
西牟田:報道によると、抗議するデモ隊に発砲するという事件がジャララバードで発生していますが、少なくともタリバンによる大虐殺は起こっていないようですね。
ところでタリバンというと、日本の報道では、残虐さばかりが強調されています。中村哲さん(※)は
「タリバンは恐怖政治も言論統制もしていない」と話しています。実のところ、タリバンは残虐で怖い酷い人たちなんでしょうか?
(※)
「ペシャワール会」代表としてアフガニスタンで人道支援を続けた日本人医師。2019年に武装集団に殺害された。
長谷部:まずは、私の体験からお話しますね。2005~2012年に私が支援活動をしていたのは、カブールから東に約150km離れた、ジャララバードを中心とする「ナンガルハル州」というところでした。そこでは、その当時でも成人の女性がひとりで街や村の外を歩くということはなく、家族とともに外出している女性はブルカを着用していました。
家に招かれた客人は、「ゲストルーム」という離れの一室ですごすことになっていて、家の女性とは一切会うことはありません。例外は長老の許可があったときだけ。そのときだけ、地域の女性と会うことができました。
西牟田:アメリカが統治していた時代でも、地方はそんな感じだったのですね。タリバンが統治していた1998年、私がジャララバードへ行ったときと大差がない。一方、カブールは違っていそうですね。私が行ったときは、地元の女性は全員がブルカを着けていました。仕事が一切できないからか、バスターミナルにブルカ姿の物乞いがかなりいました。
長谷部:私がいたころはカブールに出ると、頭にヘジャブを巻いて顔を出して独りで歩いている女性がたまにいたりして。カブールのような都会と私が活動していた田舎ではずいぶん違うので、めまいがしそうなくらいでした。