ニュース

「アメリカも自衛隊も助けてくれない」石垣駐屯地に反対する86歳の確信

<石垣の自衛隊駐屯地を考える その3>  沖縄には日本国内の米軍基地の7割が集中している。そして近年では中国の海洋進出に備えて軍事力を高める南西シフトを引くようになった。これはそれまで防衛の空白地帯とされてきた南西諸島に対し、与那国島、宮古島、奄美大島、石垣島と 駐屯地を次々と開設し、海洋進出を進める中国に対抗しようというものだ。  そうした意図で作られ続ける基地に対して、島民たちはどのような思いを抱いているのか。反対する人、賛成する人、考え方が複雑でどちらとも言えない人と考えは様々だ。今年(2023年)3月に陸上自衛隊の駐屯地が開設された石垣島を訪れ、それぞれの立場の人たちに話を聞いてみた。連載3回目となる今回は“反対派”の声に耳を傾けてみる。
山里節子さん

山里節子さん

 戦争を知らない世代の中には、定年退職している人もいる。そうした人たちが公務員の恩給をもらいつつ、反戦活動をしていたりする。今回、戦後世代で反対派の人にもインタビューしたのだが、記事の掲載を断られたので割愛する。ここでは、戦争体験を持つ“オバー”のインタビューを掲載する。

戦争体験世代の声を聞く

 昭和12年(1937)に島で生まれた山里節子さん(86)。彼女は毎週、石垣市内各地で基地反対のデモを行っている。彼女は戦争を体験した世代である。とすると自身の体験が行動の動機となっているのだろうか――。 ――ご自身の戦争体験を聞かせていただけますか? 山里:終戦のときは小学2年生でした。祖父祖母と父母、私をふくめて4人きょうだいの8人家族だったんですが、戦争でそのうち4人を亡くしました。最初は兄でした。1943年、予科練に志願した兄が那覇から鹿児島を目指して船で移動中、米軍の魚雷に撃沈されたんです。次は生まれたばかりの妹でした。生後4ヶ月でした。原因は栄養失調。兄が亡くなった翌年のことです。母と祖父はマラリアが原因でした。  今、自衛隊の駐屯地があるあたりのジャングルに避難し、転々としている中、弟以外の家族全員がマラリアに罹ってしまって。夏なのにガタガタ震えてしまいました。母は戦争が終わる前に、そして祖父は終わった後でした。 ――戦後はどんな暮らしだったんですか? 山里:とにかく食糧難。骨と皮だけで、お腹が膨れている状態。何ヶ月もお風呂に入れないし着た切り雀なので、頭や着物にシラミがわいていました。あの頃まだ電気なんか回復してないから薪を拾いに行ってましたね。米軍からマラリア予防の黄色い薬を渡されて、飲んでたんだけど、すごく苦かったのを憶えています。

敗戦後、突如生まれた“民主主義”

――アメリカがやって来てどう変わったんですか? 山里:戦後、アメリカ世と呼ばれる時代になって、言葉の意味もわからないのに「民主主義」という言葉を口ずさんでいました。県内に5ヶ所、琉米文化会館というプロパガンダ機関が設置されて、それは石垣島にも設けられました。私はそこで英語などを学びました。 ――学んだ英語はキャリアに活かされたんですか? 山里:アメリカ内務省の傘下にある軍事地質調査部で5年間働いたり、アメリカ本土と日本を結ぶ民間航空会社でCA(当時のスチュワーデス)として3年間、働いたりしました。当時はプロペラ機で太平洋を横断していたんですよ。その後は沖縄本島、石垣島で機織りをしたり、農園でのアルバイトをしたりしながら暮らしていました。
次のページ
小学校3年で反戦を誓う
1
2
3
おすすめ記事
ハッシュタグ