ばくち打ち
番外編その3:「負け逃げ」の研究(25)
岸山さんと別れ、わたしはいったん部屋に戻った。
コーヒーを飲みながら、これから起こるであろう教祖さま(荒磯さん)との戦いでの作戦を練る。
部屋の大窓から見下ろすマカオの街は、深い霧に沈んでいた。
雨にでもなるのだろうか。
勝敗確率50%の勝負に、実は緻密に練り上げるべき「作戦」などというものは存在しない。
必要なのは、マネー・マネージメントだけである。
――勝負の機微は、駒の上げ下げ。
何回も繰り返し書いてきたが、ゲーム賭博における勝負卓上の「作戦」は、これのみ。
敵が昇り調子のときにはベットを抑え、敵が落ち目のときにどかんと行く。
どれぐらい、行くのか?
今回は一本勝負で決めよう。
ごちゃごちゃと、取ったり取られたりする長丁場は、現在のわたしの状態には向いていない。それは、わかっていた。
一本調子に駆け上がり、そこから一気に蹴落とされた。
それでも、現在地点が「もう」底である、との保証はない。
底さえ打っていたなら、這い上がれる可能性もあるのだろうが、じつはまだ転がり落ちている途中で、「まだまだ」の二番底が待ち受けているかもしれないのだ。
――もうは、まだまだ。まだまだは、もう。
兜町格言だそうだが、これはゲーム賭博にもぴったりと当て嵌まる。
というか、株取引だって、当たり前に博奕(ばくち)なのである。
それにわたしはそもそも、「一撃離脱」を主戦法として、オオカミだのクマだのハイエナだのが群らがる博奕場で、これまで生き残ってきた。
大舞台は、慣れた方法で演じるのが一番だろう。
いくら、行くのか?
これも決めた。
一本、25万HKD(375万円)。
その昔、まだ40歳代で勢いがあったころのわたしは、一手25万HKDくらいの勝負は、よく打った。
勝ったり、負けたりした。
総計してみれば、勝ったときの方が多かった、と思う。
それゆえわたしは、いまでも息をしているのである。
しかしそんなのは、戻らぬ夢のおさらい。ノスタルじじいの回顧録の部に属する。
星霜を重ね、すっかりとしょっぱくなってしまった現在のわたしにとって、一手25万HKDの勝負は、ずしんと肚(はら)に響くほど大きい。
でも、行こう。
そう決めた。
そして、岸山さんのように、「勝っても負けても、今回はこの一手で終了」としよう。
このハウス到着時にわたしがした50万HKDのデポジットは、まだ手付かずでそのまま残っていた。
したがって、たとえ25万HKDの大一番を失ったとしても、「『半ちぎり』で帰る」とする今滞在の「負け逃げの研究」の趣旨にはかなっている。
これも、自分自身への言い訳だ。
言い訳だけなら、無数に存在する。博奕では、どんな言い訳でも可能だ。
しかし、負けることはあるまい、と無理やり自分を信じさせた。
博奕は、とにかく信じるというところから始まる。
そりゃそうだ。何の根拠もないものに、大枚のおカネを賭けていくのだから。
大窓の外の霧が、大粒の雨に変わった。
その大粒の雨が視界をさえぎり、マカオの街の灯は消えている。
マリアナ諸島近海で発生した台風は、どうやら進路を西に向け北上中のようである。
教祖さまは、このハウスだと通常、正午過ぎにゲーミング・フロアに降りてきた。
それまで時間は充分にある。
わたしは、バスルームにある大型ジャグジーに湯を入れた。
頭の中を空っぽにして湯に浸かりたいのだが、なかなかそういうわけにもまいりません。
泡を噴く湯船の中で手足を思いっ切り伸ばしていても、頭の内部は、妄想ばかり苦しゅうて。
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