番外編その3:「負け逃げ」の研究(31)

 教祖さまが、細い目ん玉をひん剥いて、3枚目のカードを絞り始めた。

 絞り方から推察するに、どうやら脚がついた(4から10のカードを意味する)ようだ。

 間違いなく二段目は「抜け」ている。

 中央も「抜け」ていれば、それはリャンピン(4か5)のカード。

 そうなったらプレイヤー側の持ち点は8か9となるので、バンカー側のわたしのベット25万HKD(375万円)はご臨終状態に陥る。

「真ん中にテンがついているでしょ。サンピンですよ。昨日もそうだったんだから」

 ここいらへんは、ちょっと露骨な呼び込み。

 やりすぎかもしれないけれど、こっちだって大金が懸っているのだ。

 教祖さまは、わたしの露骨な呼び込みを無視し、横からカードにしきりと息を吹きかけていた。

 これは「チョイ(=点が飛んでいけ)」という大陸系バカラ賭人がよくやる「おまじない」。

 隣席の歳若い美女も、手のひらでぱたぱたとカードを扇(あお)ぐ。

 これも、点が飛んでいけという、もうひとつの「おまじない」だ。

「まじない」とは、神霊に対して願い祈る行為なのであろう。

 すでにシューから引き抜かれたカードなのだから、どんな超人間的な力を行使しようとも、そこに描かれた数字が変わることなどあり得ない。

 しかし、博奕(ばくち)って、そういうものでもない、とわたしは感じる。

 ――絞ってる打ち手がもつ恐怖の分だけの数字が、カードに印刷されるんだよ。

 これは、ロンドン時代からわたしの友人で、現在は某大手カジノのナンバー2を務める男が、冗談めかして言ったことだ。

 おそらくバカラでの絞り(=スクイーズ)の本質を衝いた言葉ではなかろうか。

 それはともかく。

 教祖さまは、ふーふー。

 美女は、ぱたぱた。

 誰かわたしを呼んでるような。

 とつづけば、まるで島倉千代子の歌う「襟裳岬の風と波」の様相を呈してきた。

 教祖さまが、ぐいっとカードを絞りこんだ。

 そして、がっくり頭を垂れる。

 マークが出てしまったのだ。

 すなわち、教祖さまが神霊の力を借りてまでして絞っていたプレイヤー側3枚目のカードは、サンピンの6か7か8である。

 フェイス・アップにしなくても、そのカードの種類が読めてしまう。

 これもバカラでの絞りにおける「妙」である。

「はっはっはっ」

 とわたし。

 でもまだ勝負はついていない。

 カジノでは、可能性がゼロとならないと、なんでも起こるのである。

 13分の1の確率のカードに、7手連続で捲くられてしまう、なんてこともあった。

 教祖さまの顔が、青白いものから赤黒く膨れ上がっていった。

 こめかみに浮き出した汚らしい血管が、緊急事態を生々しく示している。

「8は駄目ですよ。そこでフィニートとなってしまう」

 おそらくサンピンだろうカードを縦サイドから絞り始めた教祖さまに、わたしは呼び込みの追い打ちをかけた。

 4プラス6なら、ゼロのブタ。

 4プラス7なら、1のチンケ。

 4プラス8なら、与えられた条件下では最大の2の持ち点となるのだが、これは「3条件」に引っ掛かって
、最悪。プレイヤー2・バンカー3で勝負が終わる。

「だめよ、だめだめ、いけないと」

 わたしは、森進一の『年上の女』を鼻歌で流す。

 わたしも、古い。

 でも、日本を離れて四十余年。スマップなんて、つい最近まで知らなかったのです。許してください。

 それに、日本の都市の場末で見るストリップとバカラには、演歌が似合う。これはわたしの持論。

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番外編その3:「負け逃げ」の研究(32)

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PROFILE

森巣博
森巣博
1948年日本生まれ。雑誌編集者を経て、70年代よりロンドンのカジノでゲーム賭博を生業とする。自称「兼業作家」。『無境界の人』『越境者たち』『非国民』『二度と戻らぬ』『賭けるゆえに我あり』など、著書多数。