番外編その3:「負け逃げ」の研究(33)

 わたしの決断は、早かった。

 席前に積まれたものと、ベット・サークルに置かれたチップを浚(さら)うと、わたしはさっと席を立った。

 負けたわけじゃない。しかし、敵のゼロを叩けなかった。

 こんな博奕(ばくち)は、打ち続けても勝ってこないのである。

 オケラになるのが、2分後か2時間後か2日後かはわからないけれど、確実に負ける。

 わたしは無言でケージ(=キャッシャー)に向かった。

 背中に教祖さまの甲高い笑い声が突き刺さる。

 耐える。我慢する。

 今回は、許しちゃる。

 しかし、今日の子豚、明日のベーコン。

 丸々と太って、戻ってこい。

 その時には、確実に殺して差し上げる。

「ホストを呼んで」

 わたしはケージ内の職員に依頼した。

「誰がいいですか?」

「誰でもいいよ。プログラムを閉めるように頼んでおいて。わたしは荷物をまとめて、2時間後にここに降りてくるから」

 ノンネゴシアブルばかりで、まだ1枚のキャッシュも入っていない50万HKD分のチップを窓口に置くと、わたしは言った。

 今回のマカオ遠征は、これにて終了。

 持ち込んだ分だけの現金は、持って帰れる。

 いや、短時間の勝負だったが、滞在前半を快調に飛ばしていたので、ロール・オーヴァーに0.75%つくキャッシュ・バック分が、宿泊代やマッサージなどの諸経費を差っ引いても5万HKD(75万円)以上はあるはずだ。

 したがって、その分は実質的な勝利である。

 しかし負けたわけでもないのに、わたしは圧倒的な敗北感に打ちひしがれていた。

 何度も経験している、おなじみの感覚だ。

 どうしてだか、わからない。

    *        *        *        *

 

 予約をその夜のフライトに変更した。

 23時55分発。シドニー到着が翌日の正午前後になる便である。

 HKIA(香港国際機場)に向かう空港フェリーで、古くからの知り合いのSさんにお会いした。

 深夜1時05分発CX/JAL共同運航の成田便があるので、このフェリーにはいつも日本人乗客が多い。

 午前6時05分成田着だから、飛行機の中で睡眠をとり、皆さん、そのまま職場に向かうのである。

 ゲーム賭博という底なしの淵に張られた欲望と快楽の網に引っ掛かってしまうと、人は苦労するものなのよ。

 Sさんとは、永い。

 最初にお会いしたのは、かれこれふた昔も前となる、1990年代中期、オーストラリアのカジノでだった。

 そのころオーストラリアのカジノで知り合った日本からの打ち手たちは多いのだけれど、ほとんどの人が消えた。

 破産や逃散、家族離散。

 塀の中でしゃがんでいたり、自死しちゃったり。

 死屍累々(ししるいるい)。いやになるほど、死屍累々。

 ゲーム賭博の魔力に絡め獲られると、そうなってしまう人たちは多い。

 でも、どっこい。

 少数とはいえ、まだ生き残っている人たちも、また居るのである。

 Sさんは、そんな少数派の一人だ。

 当時のSさんは、BJ(ブラックジャック)のプレイヤーで、メリハリのきいたイキのいい博奕を打っていた。

 耐えるところは耐えて、行くべきところで驚くような金額を張る。

 どかんと行く。

 つまり、「行き越し」がよかった。

「Uさん、パンクしましたね」

 と、マカオ・フェリー・ターミナルを離港したら隣りのシートに移動してきたSさんが、言った。

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番外編その3:「負け逃げ」の研究(34)

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PROFILE

森巣博
森巣博
1948年日本生まれ。雑誌編集者を経て、70年代よりロンドンのカジノでゲーム賭博を生業とする。自称「兼業作家」。『無境界の人』『越境者たち』『非国民』『二度と戻らぬ』『賭けるゆえに我あり』など、著書多数。