番外編その4:『IR推進法案』成立で考えること(4)

 法的に微妙な点(というか、場合によっては明らかに違法な部分)を含むゆえ、ジャンケットの起源をはっきりと説明した権威ある学術書は、わたしが知る限りまだない。

 しかし(自称ではない)カジノ研究者の間で合意されている「ジャンケットの歴史」とは、大雑把にいえば以下のごとくなる。

 1962年、マカオにおける賭博独占権を、タイヒン(Tai Hing)社から譲渡されたスタンレー・ホー(Stanley Ho)率いるSTDM社は、大規模な顧客開拓に乗り出した。

 当時、マカオのカジノの客たちのほとんどは、香港からフェリーで来る者か、ないしはマカオの地元民だったのである。

 現在からは信じられないかもしれないが、この頃の香港やマカオはとても貧しかった。

 ションベン博奕を打たれて、そこから2%にも満たない、いわゆる「Win Rate(数学的にハウス側の収益となるレート)」でシノギをしても、嵩(たか)が知れた商売としかならない。

 つまり、パイが小さかった。

 そこでホーが目をつけたのが、共産党政権下の大陸だった。

 じつは共産党政権下の大陸には、小金持ちたちがそれなりの数存在していたのである。

 汚職官僚や党関係者およびそれらとつるんで商売をする産業人たちが、大枚の人民元を握っていた。

 しかし、共産党政権下できわめて厳しい為替管理が敷かれていたこともあり、彼ら彼女らには、そのカネを海外に持ち出す手段がない。

 そこで、ジャンケットの登場だ。

 大陸内の地下にあるジャンケット業者が、たとえば陳さんなら陳さんに100万HKD(香港ドル)のクレジットを与える。

 陳さんは一銭もカネを持ち出すことなく、その100万HKDをバンク・ロールとし、マカオでバカラの札を引く。

 2004年まで、マカオで大きな博奕を打たせるハコは、スタンレー・ホーの『リスボア(澳門葡京酒店)』しかなかったのだから、そこのジャンケット・ルームだったと考えても、間違いではあるまい。

 陳さんが負ければ、負けた分だけ大陸に戻ってから人民元でジャンケット業者と精算する。

 勝ったりバンク・ロールが残れば、それは(多くの場合)香港の銀行に積み立てられる。

 香港の口座に積み立てられた香港ドルとなれば、それはもう陳さんがどう遣おうと勝手だ。

 外為法を無視した、現在の言葉でいえば「マネロン(=マネー・ロンダリング)」である。

 この商売だけで充分に儲かるのであるが、ジャンケット業者は、じつはもっと貪欲だった。

 負け込み、「目に血が入って」しまった博奕亡者たちに、ジャンケット・ルームでどんどんとカネを貸し出すのである。

 これで、100万HKDのクレジットだった打ち手が、カジノのハコを出るときには、500万HKDだの1000万HKDの借金を背負っている。

 これが、「ジャンケットの起源」とする説が有力だ。

 お断りしておくが、これはあくまで、「起源」の説明である。現在のジャンケットの業態ではない。

 以降、業務内容も業態も変化し洗練されて、現在では香港証券取引所に上場されているジャンケット業者が6社もある。

 しかしそういう過去を持つゆえ、FBIの「マネロン・リスト」に載り、スタンレー・ホーは、アメリカ合衆国に入国することができなかった。

 アメリカでのビジネスの交渉は、すべてスタンレー・ホーの息子か娘がやっていた。

 壮年の頃のスタンレー・ホーは、よく日本に来た。

 日本でどういう人たちとどういう内容の打ち合わせをしていたかについては、それなりの想像ができても、定かでない。

 来日の際には、神田猿楽町にあった(現在は丸の内の丸ビルに移転)『天政』に必ず寄って、てんぷらに舌鼓を打っていたそうである。

⇒番外編その5:『IR推進法案』成立で考えること(5)

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PROFILE

森巣博
森巣博
1948年日本生まれ。雑誌編集者を経て、70年代よりロンドンのカジノでゲーム賭博を生業とする。自称「兼業作家」。『無境界の人』『越境者たち』『非国民』『二度と戻らぬ』『賭けるゆえに我あり』など、著書多数。